第2話 誇り高き才媛・細川ガラシャの悲しい生涯

小倉藩初代藩主・細川忠興(ほそかわただおき)の妻・細川ガラシャ。才色兼備と謳われ、戦国時代の女性の中でも高い知名度を誇ります。 明智光秀の三女として、そして細川家の嫁として、数奇な運命を歩んだ細川ガラシャの人物像に迫ります。

細川ガラシャと小倉

細川ガラシャは、小倉の地に足を踏み入れたことはありません。ガラシャが亡くなったのは慶長5年(1600年)8月のこと。細川忠興が小倉城を居城とした慶長7年(1602年)より前の話です。

ガラシャに対して深い愛情を抱いていた忠興は、ガラシャの死後、彼女をキリスト教に導いたグレゴリオ・デ・セスペデス神父を小倉に招きます。セスペデス神父は慶長6年(1601年)に教会を設立。

以降、慶長16年(1611年)にセスペデス神父が亡くなるまで、忠興の命によりガラシャの追悼ミサを行ったといわれています。 小倉城に展示されているジオラマでも、この追悼ミサの様子が描かれています。
小倉城天守閣一階の展示

明智光秀の三女として、細川家の嫁として

細川ガラシャは、永禄6年(1563年)、明智光秀の三女として生まれました。本名は明智 玉(あけち たま)。天正6年(1578年)8月に、織田信長の勧めにより細川忠興に嫁ぎます。

しかし天正10年(1582年)に起こった本能寺の変において、父・明智光秀が信長を襲撃したことで玉の生活は一変。

光秀の娘であるガラシャは「謀叛人(むほんにん)の娘」の烙印を押され、夫の忠興により丹後国の味土野(みどの)に幽閉されてしまいます。
天正12年(1584年)に羽柴秀吉の取りなしにより大坂に戻った玉は、その後キリスト教に傾倒します。

キリスト教と「ガラシャ」の名

キリスト教に傾倒した玉は天正15年(1587年)に受洗。このときに「ガラシャ」という洗礼名を受けました。

由来はラテン語で恩寵(おんちょう)(=神の無償の賜物)を意味する「Gratia(グラツィア)」という言葉。本名の「玉(たま)」が「賜物」という意味も持つため、本名を意訳してつけられたといわれています。

キリシタンとなったガラシャは、うつ病を克服し、快活で積極的な性格へと変化。侍女や家臣の改宗を積極的に進めます。そして、自らも書物を通じてさらにキリシタンへの理解を深めていきます。

ちりぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

細川ガラシャの辞世の歌は「ちりぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」。
「花は散るときを知っているからこそ花として美しい。人間もそうであらなけれならない。今こそ散るべきときである」という意味です。

慶長5年(1600年)、夫の細川忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣。忠興は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣に命じます。
ガラシャは、自らが身を置く大坂玉造の細川屋敷を石田三成の軍勢に取り囲まれます。人質となることを要求されますが、それを拒み死を選ぶガラシャ。
しかしキリシタンであるため自害が許されず、家老・小笠原少斎に胸を長刀で突かせて絶命しました。このとき、ガラシャは38歳。

ガラシャは自らの“散るべきとき”を知っていたのではないでしょうか。

オペラになったガラシャ

細川ガラシャの壮絶な生涯は、彼女の死後ヨーロッパで戯曲化。1698年にウィーンで、戯曲「気丈な貴婦人グラティア」が上演されました。

丹後国王の妃であるガラシャが、暴君である夫のキリスト教迫害に堪え、キリスト教の信仰を守り通すというあらすじで、最後は自らの死をもって、夫が自らの非を認め、改心するというものです。

その後、フランスでの書籍の出版などもあり、ガラシャの生涯はヨーロッパにも広く知られるようになり、キリスト教倫理の模範として称えられました。

まとめ

小倉の地に足を踏み入れたことがないとはいえ、小倉城下で長らく追悼ミサも行われていたことから、細川ガラシャは小倉に縁のある人物といってもいいでしょう。

ガラシャへの愛情の深さから、彼女をキリスト教に導いたセスペデス神父を小倉に呼び寄せるほどですから、もしかしたら細川忠興の町づくりに、ガラシャの影響があるかもしれません。

……などと、想像してみるのも面白いですね。
参考文献:田端 泰子「細川ガラシャ」ミネルヴァ書房、2010年/安 廷苑「細川ガラシャ キリシタン資料から見た生涯」中公新書、2014年
文:成重 敏夫
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