第3話 時の天皇が命を救った知勇兼備の武将・細川幽斎とは

小倉藩の初代藩主である細川忠興の父・細川幽斎。
安土桃山時代には足利氏に仕え、のちに信長、秀吉、家康といった時の有力者に重用された細川幽斎は、当代随一の教養人ともいわれ、知勇兼備の武将として有名です。 あまりの教養の深さから、戦いの際に天皇がその命を救ったことも。

“知勇兼備の武将”細川幽斎とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。

豊国の嵐の山の麓川 岩越す波は桜なりけり

小倉南区の桜橋付近にある小嵐山に、このような歌が記されている立て札があります。

豊国(とよくに)の嵐の山の麓川(ふもとかわ) 岩越す波は桜なりけり

これは、細川幽斎がこの地に遊んで詠んだ歌です。

桜橋付近は京都の嵐山に似ているということで、幽斎が嵐山の桜を取り寄せ、この山を中心とした一帯に植えさせたとのこと。
この山が小嵐山と呼ばれる由来です。

細川幽斎を救った「古今伝授」

細川幽斎は「当代随一の教養人」といわれ、当時の武家のたしなみである茶の湯や連歌の才能に加え、和歌・囲碁・料理・猿楽などにも深い造詣を持っていました。
さらに、剣術などの武芸にも秀でており、知勇兼備の武将として名を馳せました。

この細川幽斎を語る上で、「田辺城の戦い」は欠かせません。

慶長5年(1600年)、細川幽斎が守る丹後田辺城を、西軍の15,000もの西軍が包囲します。
田辺城に籠る細川軍はわずか500人の軍勢と、約30分の1の人数。 幽斎らは抵抗するものの、兵力の差は歴然。10日ほどで落城寸前まで追い込まれました。

ここで、「古今伝授」が幽斎を救います。

「古今伝授」とは、古今和歌集の読み方や解釈を秘伝として師から弟子に伝えるもの。 当時、幽斎は三条西実枝から古今伝授を相伝されていました。
仮にここで幽斎が死亡してしまうと、古今伝授が絶えてしまいます。
そのことを恐れた朝廷は田辺城の東西両軍に勅使を派遣。これに従った幽斎は田辺城を開城します。

結果としては西軍の勝利ですが、15,000もの軍勢はこの地に足止めされ、関ヶ原の戦いの本戦には参戦できませんでした。

関ヶ原の戦いの結果は、ご存じの通り東軍の勝利、西軍の敗北です。

もし、田辺城で釘づけにされた15,000もの西軍の軍勢が関ヶ原の戦いに参戦できていたら、戦いは違った結末を迎え、歴史が大きく変わっていたかもしれません。

仮にそうなっていた場合、幽斎の子・細川忠興が小倉に来ることもなかったでしょう。
小倉の街は、今と全く違うものになっていたかもしれませんね。

細川幽斎と明智光秀の複雑な関係

足利氏、信長、秀吉、家康といった時の有力者に仕えてきた細川幽斎ですが、最も関係の深い武将といえば、やはり明智光秀ではないでしょうか。

ともに信長に仕えていた幽斎と光秀ですが、元々は幽斎のほうが格上だったともいわれています。

しかしながら、天正3年(1575年)に幽斎(当時は「藤孝」)が光秀の与力に位置付けられたことで立場が逆転。
さらに天正6年(1578年)、信長の薦めにより光秀の娘・玉(ガラシャ)が幽斎の嫡男・忠興に嫁いだため、ふたりは姻戚関係となります。

そしてその4年後の天正10年(1582年)に起こった本能寺の変にて、ふたりの関係はさらに大きく変わります。
信長を討った光秀は、姻戚関係にあった幽斎・忠興父子に支援を要請。
しかし細川父子はそれを拒否し、忠興は妻・玉(ガラシャ)を丹後国の味土野(みどの)に幽閉します。
その後、光秀は山崎の戦いで敗死。細川父子は秀吉方で出陣し、忠興が軍功を挙げたともいわれています。

「盟友」と呼ばれることもある幽斎と光秀ですが、実のところはかなり複雑な関係だったのではないでしょうか。

細川幽斎の晩年

晩年の細川幽斎は、京都吉田で悠々自適な生活を送ったといわれています。
そして慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で77年の生涯を閉じました。

まとめ

小倉南区の桜橋、そして小嵐山は「当代随一の教養人」といわれた細川幽斎が小倉の地に残したもの、ともいえるでしょう。
毎年4月~5月には、桜橋付近に多数の鯉のぼりが泳ぎます。
悠々と泳ぐ鯉のぼりを見ながら、幽斎が残したものに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
参考文献:米原正義「細川幽斎・忠興のすべて」新人物往来社、2000年
文:成重 敏夫