第5話 小倉城主・毛利勝信と“真田より強い”毛利勝永父子の小倉とのかかわり

豊臣秀吉に仕えた家臣、毛利勝信・勝永父子も小倉に縁の深い人物として挙げられます。 天正15年(1587年)に小倉城に入城した毛利勝信、そして大坂夏の陣で小倉藩初代藩主・細川忠興と相まみえた、勝信の子・毛利勝永。

ふたりは小倉の町とどのようにかかわり、戦国の世をどのように生き抜いたのでしょうか。

父・毛利勝信が小倉に

天正15年(1587年)に九州平定を終えた豊臣秀吉は、森吉成に豊前国8郡のうちの2郡6万石を与え、小倉の領主とします。
このとき、吉成は秀吉から森姓を毛利姓に改めるように命じられ、毛利勝信と改名します。

毛利姓の武将といえば中国地方の武将・毛利元就が有名ですが、このような経緯ですので、中国地方の毛利家との血縁関係はありません。

小倉城に居城した勝信は、キリスト教にも関心を示し、宣教師を厚遇します。
勝信の時代に小倉のキリスト教信者が増え始め、細川氏の代となってさらに増えたといわれています。

また、勝信は彦山(現在の英彦山)を自らの支配下に置こうとし、弟の毛利吉勝の息子を彦山の座主(ざす・住職の最上位)にするように迫ります。しかし、彦山座主はその要求を拒絶。その後勝信と彦山は長く対立します。

このとき、彦山が大谷吉継や黒田孝高(官兵衛)の叔父・小寺休夢を通じて、秀吉政権に対しその窮状を訴え続けたことが古文書に残されています。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、毛利父子は石田三成率いる西軍につきます。
しかし西軍は敗れ、黒田孝高の策略により小倉城は落城。
毛利父子は肥後国(現在の熊本県)へ追放され、その後土佐の山内一豊(やまのうちかずとよ)に預けられます。

そして11年後の慶長16年(1611年)5月6日、毛利勝信はこの世を去ります。

惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず

毛利勝信の子・毛利勝永の活躍で最も知られているのは、慶長20年(1615年)大坂夏の陣での功績ではないでしょうか。

父・勝信が亡くなった3年後の慶長19年(1614年)、勝永は土佐を脱出。大坂城に入ります。
真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤又兵衛、明石全登とともに大坂城の五人衆と称された勝永は大坂夏の陣で奮戦。数多くの武将を撃破します。

大坂夏の陣では、真田信繁が徳川家康をあと一歩のところまで追いつめたといわれていますが、それはこの毛利勝永の奮闘のおかげであるとも伝えられています。その戦闘力は真田信繁を上回っていたとも。

この活躍により、勝永は江戸時代に「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と評されます。
「毛利勝永は真田信繁に比べて語られることが少なかった」との意味ですが、その戦闘力が確かなものであったことの証ともいえるでしょう。

毛利勝永と細川忠興との遭遇

大坂夏の陣の最後の戦い「天王寺口の戦い」では、毛利勝永と初代小倉藩藩主・細川忠興が戦場で相まみえたと伝えられています。

戦いを優位に進めていた勝永ですが、真田信繁が徳川家康を討ち取りきれずに力尽きたことで、劣勢に立たされます。
四方から敵の攻撃を受ける状況となってしまい、戦いを続けることが不可能となった勝永は大坂城へ撤退を決意。

そこで、細川忠興や藤堂高虎といった歴戦の武将たちが追撃をかけてきますが、勝永はこれを撃退。 無事大坂城へ帰還します。

約15年前に小倉城を出た毛利勝永、そしてまさにこのとき小倉藩初代藩主として小倉城を居城としていた細川忠興。
もしここで、勝永が忠興を討ち取っていたら……などと考えてしまいますね。

ちなみに、「天王寺口の戦い」で勝永が討ち取ったといわれる武将のひとり、信濃松本藩の初代藩主・小笠原秀政は、のちに小笠原小倉藩初代藩主となる小笠原忠真の父にあたります。
父の死後は忠真が小笠原家を継ぐのですが、後々改易危機に見舞われた小笠原氏を救ったのは徳川家康を守って勇敢に戦死した秀政の「父祖の勲功」が一因であるといわれています。

まとめ

毛利勝信・勝永父子は、形こそ違えどともに小倉に縁のある武将です。 もし、勝信がキリスト教にあまり興味を示していなかったとしたら、そして 大坂夏の陣での勝永と細川忠興、小笠原秀政との戦の結果が異なっていたら、小倉の町は全く違った道を歩んでいたことでしょう。


参考文献:今福匡 「真田より活躍した男 毛利勝永」宮帯出版社 2016年

文:成重 敏夫