第8話 巌流島に散った謎多き剣士・佐々木小次郎

前回の「剣豪・宮本武蔵と小倉との深いつながり」で紹介した宮本武蔵のライバルとして知られる佐々木小次郎。佐々木小次郎の名を聞いて「長剣を持った美少年」を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

今回の「小倉城ものがたり」では佐々木小次郎のエピソードをいくつか紹介いたします。

なお、佐々木小次郎は非常に謎の多い人物で、出自、姓名、年齢などについて諸説が入り乱れています。本記事の内容にもその一説を基にした部分が含まれますことをあらかじめご了承ください。

佐々木小次郎と小倉との関係

佐々木小次郎は、安土桃山時代~江戸時代初期にかけて、「巌流(岩流)」と称し活躍した剣豪です。

小倉藩藩主であった細川忠興に仕え、小倉藩の剣術師範を務めたといわれています。

慶長17年(1612年)には、当時小倉藩に属していた船島(巌流島)で宮本武蔵と決闘(巌流島の戦い)。

また、小倉北区赤坂の手向山公園(たむけやまこうえん)には、作家の村上元三氏が新聞連載小説「佐々木小次郎」の完成を記念して旧小倉市に寄贈した、佐々木小次郎の碑が設置されています。
2019年3月の小倉城リニューアルの際には、天守閣前の広場に宮本武蔵と佐々木小次郎のモニュメントが設置されました。

佐々木小次郎と巌流島

佐々木小次郎に関するエピソードで真っ先に思い浮かぶものは、やはり「巌流島の戦い」でしょう。

関門海峡に浮かぶ船島(巌流島)で行われた、佐々木小次郎と宮本武蔵との決闘「巌流島の戦い」は宮本武蔵が勝利。

一般的には、小次郎の敗因は「武蔵が決闘の時刻に遅れてきたため小次郎が冷静さを失ったから」などといわれていますが、実はこの“武蔵の遅刻”は吉川英治の小説「宮本武蔵」上での創作にすぎません。

手向山公園に建てられている「小倉碑文(こくらひぶん)」には「両雄同時に相会し」と記されており、武蔵は「巌流島の戦い」において遅刻していないとされています。

佐々木小次郎の姓名と年齢

驚いたことに、この「佐々木小次郎」という姓名も正しいものであるかどうか、はっきりしていません。

「小倉碑文」に記されている小次郎(とされる人物)の名は「岩流」のみ。小次郎という名が初めて出てきたのは、宝暦5年(1755年)に肥後細川藩の豊田正脩が著した宮本武蔵の伝記「武公伝」で、「巌流島の戦い」からなんと約140年も経過した後のことです。

さらに90年ほど経過した天保14年(1843年)の「撃剣叢談(げきけんそうだん)」で、ようやく佐々木姓が出てきたとされています。

つまり、「佐々木小次郎」という姓名が初めて揃ったのは、「巌流島の戦い」から約230年が経ってからのことで、これが正しいものであるかは判断しづらいところです。

また、小次郎は出生年にも諸説あるため「巌流島の戦い」当時、何歳か分かっていません。
18歳とするもの、50代前後ではないかというもの、70歳を超えていたとするものなど諸説あります。

佐々木小次郎と「つばめ返し」

佐々木小次郎の必殺技といえば「つばめ返し」。つばめの飛ぶ姿や、つばめが柳の枝の間を巧みに飛びぬける姿を見た小次郎が編み出したものとされています。

しかし、この「つばめ返し」という技の名は後世に付けられたもので、正式には「虎切り」と呼ばれる剣法の型だそうです。

この「つばめ返し」を編み出したといわれる場所も、複数存在しています。

まずは福井市の一乗滝。小次郎が「つばめ返し」を編み出したという伝承が残っているとのことで、小次郎が剣の修業に取り組んでいる姿をイメージした銅像も建てられています。

また、山口県岩国市の錦帯橋も「つばめ返し」を編み出した地とされています。
しかし錦帯橋は「巌流島の戦い」の約60年後の延宝元年(1673年)に作られたものであるため、この説は吉川英治の小説「宮本武蔵」からきているものといわれています。

まとめ

佐々木小次郎は謎の多い人物ではありますが、宮本武蔵のライバルとして名高い存在ではあることには違いありません。

後世の創作によりさまざまなイメージを持たれていますが、やはり小倉城天守閣前の広場にあるモニュメントのような「長剣を持った美少年」の姿がしっくりくるという方が多いのではないでしょうか。

小倉城の天守閣3階は武蔵と小次郎の展示専用フロアになっており、小次郎になりきって武蔵の人形と対決できるフォトスポットがあります。お越しの際はぜひお立ち寄りください。
参考文献:
川口 素生「佐々木小次郎―出自・つばめ返し・巌流島の真実」
アーツアンドクラフツ 2002年

文:成重 敏夫
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