第10話 小倉藩でワインを造った第2代藩主・細川忠利
小倉藩初代藩主・細川忠興の跡を継ぎ、第2代藩主を務めた細川忠利(ほそかわただとし)。
近年、忠利が小倉藩でワイン造りをしていたことが明らかになり、にわかに注目を浴びています。また、ある熊本名物も忠利がきっかけで生み出されたものであるとか。
小倉藩第2代藩主・細川忠利とは、どのような人物であったのでしょうか。
近年、忠利が小倉藩でワイン造りをしていたことが明らかになり、にわかに注目を浴びています。また、ある熊本名物も忠利がきっかけで生み出されたものであるとか。
小倉藩第2代藩主・細川忠利とは、どのような人物であったのでしょうか。
水前寺成趣園にある細川忠利公の銅像
細川忠利とは
細川忠利は天正14年(1586年)、細川忠興・ガラシャ夫妻の三男として生まれます。祖父は細川幽斎と明智光秀。ともに個性の強い武将として有名です。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの直前に、忠利は江戸の徳川家に人質に出されます。そこで徳川家康・秀忠からの信頼を得た忠利は、慶長9年(1604年)に細川家の家督相続者に内定。
それから16年後の元和6年(1620年)に家督を相続。新しい小倉藩藩主が誕生しました。 忠利は藩主として、農民の救済や目安箱の設置など、新しい時代の基礎作りを実施。以降、寛永9年(1632年)に熊本へ転封されるまで、小倉藩藩主を務めました。 ちなみに、忠利の次に小倉藩藩主となる小笠原忠真(おがさわらただざね)は、忠利の正室・千代姫の兄にあたります。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの直前に、忠利は江戸の徳川家に人質に出されます。そこで徳川家康・秀忠からの信頼を得た忠利は、慶長9年(1604年)に細川家の家督相続者に内定。
それから16年後の元和6年(1620年)に家督を相続。新しい小倉藩藩主が誕生しました。 忠利は藩主として、農民の救済や目安箱の設置など、新しい時代の基礎作りを実施。以降、寛永9年(1632年)に熊本へ転封されるまで、小倉藩藩主を務めました。 ちなみに、忠利の次に小倉藩藩主となる小笠原忠真(おがさわらただざね)は、忠利の正室・千代姫の兄にあたります。
細川忠利は400年前にワインを造っていた!?
現在、北九州市は「汐風香る魅惑のワイン特区」に認定されており、市内でワイン造りに取り組んでいるワイナリーさんがいらっしゃいます。
北九州市でワイン造りというと意外な感じがするかもしれませんが、実は今からさかのぼること400年前にも小倉の地でワインが造られていたんです。
熊本大学の文献調査によって、寛永5年(1628年)に細川忠利が家臣の上田太郎右衛門にワイン造りを命じていたことが明らかになりました。
忠利が「ぶだう酒を作り申す時分にて候間、上田太郎右衛門に便宜次第申遣作せ可申旨、御意之由」と、太郎右衛門にワイン造りを指示した記録が残されています。
史料によれば、少なくとも寛永4年(1627年)から寛永7年(1630年)までの4年間は、毎年葡萄酒を仕込ませ、納品させていたことが分かっています。
忠利が造らせていたワインの主材料は、「がらみ」と呼ばれる山ブドウの一種。黒大豆を使って「がらみ」を発酵させていたようです。
小倉は、日本初のワイン産地だったのかもしれませんね。
また、忠利はワインの輸入も行っていたとのことで、小倉藩でのワイン製造期間の前後にワインを手配した記録が残っています。
それによると、忠利は甘めのワインを好んでいた模様。忠利は病気がちだったこともあり、ワインを薬用として飲んでいたのではないかとされています。
北九州市でワイン造りというと意外な感じがするかもしれませんが、実は今からさかのぼること400年前にも小倉の地でワインが造られていたんです。
熊本大学の文献調査によって、寛永5年(1628年)に細川忠利が家臣の上田太郎右衛門にワイン造りを命じていたことが明らかになりました。
忠利が「ぶだう酒を作り申す時分にて候間、上田太郎右衛門に便宜次第申遣作せ可申旨、御意之由」と、太郎右衛門にワイン造りを指示した記録が残されています。
史料によれば、少なくとも寛永4年(1627年)から寛永7年(1630年)までの4年間は、毎年葡萄酒を仕込ませ、納品させていたことが分かっています。
忠利が造らせていたワインの主材料は、「がらみ」と呼ばれる山ブドウの一種。黒大豆を使って「がらみ」を発酵させていたようです。
小倉は、日本初のワイン産地だったのかもしれませんね。
また、忠利はワインの輸入も行っていたとのことで、小倉藩でのワイン製造期間の前後にワインを手配した記録が残っています。
それによると、忠利は甘めのワインを好んでいた模様。忠利は病気がちだったこともあり、ワインを薬用として飲んでいたのではないかとされています。
あの熊本名物も細川忠利が生み出した!?
熊本県の郷土料理・からし蓮根。
麦みそに和からしを混ぜた“からしみそ”をレンコンの穴に詰め、黄色い衣を付けて油で揚げる熊本の名物です。
実はこのからし蓮根も、細川忠利と関係の深い食べ物なんです。
忠利は、小倉を離れ熊本に移ったあとも体調がすぐれずに食が進まなかったそうです。
そこで、忠利に従って耶馬渓羅漢寺からやってきた玄宅和尚が、忠利の食が進むような滋養強壮に良い料理を料理人たちに作らせたのがはじまりといわれています。
輪切りにしたれんこんの外観が細川家の家紋、九曜(くよう)の紋に似ていることから、門外不出の料理とされていたとも。
実はこのからし蓮根も、細川忠利と関係の深い食べ物なんです。
忠利は、小倉を離れ熊本に移ったあとも体調がすぐれずに食が進まなかったそうです。
そこで、忠利に従って耶馬渓羅漢寺からやってきた玄宅和尚が、忠利の食が進むような滋養強壮に良い料理を料理人たちに作らせたのがはじまりといわれています。
輪切りにしたれんこんの外観が細川家の家紋、九曜(くよう)の紋に似ていることから、門外不出の料理とされていたとも。
細川忠利と宮本武蔵の関係
寛永17年(1640年)、細川忠利は、晩年の剣豪・宮本武蔵を小倉から熊本に招きます。
熊本城に隣接する千葉城に屋敷を与えるなど、客人(相談役)として武蔵を厚遇。武蔵は、二天一流の兵法書「兵法三十五箇条」を忠利に献上します。
忠利は、祖父・細川幽斎や父・細川忠興と同様、和歌や茶道もたしなんでいましたが、最も熱心に取り組んだのが武芸であったといわれています。
若い頃から剣術家の柳生宗矩に師事し、秘伝の「兵法家伝書」を与えられるほどの腕前だったとのこと。
忠利と武蔵が昵懇の間柄となったきっかけははっきりとしていませんが、武芸に秀でた者同士、理解しあえるものがあったのかもしれませんね。
熊本城に隣接する千葉城に屋敷を与えるなど、客人(相談役)として武蔵を厚遇。武蔵は、二天一流の兵法書「兵法三十五箇条」を忠利に献上します。
忠利は、祖父・細川幽斎や父・細川忠興と同様、和歌や茶道もたしなんでいましたが、最も熱心に取り組んだのが武芸であったといわれています。
若い頃から剣術家の柳生宗矩に師事し、秘伝の「兵法家伝書」を与えられるほどの腕前だったとのこと。
忠利と武蔵が昵懇の間柄となったきっかけははっきりとしていませんが、武芸に秀でた者同士、理解しあえるものがあったのかもしれませんね。
まとめ
寛永18年(1641年)3月、忠利は突然の病が原因で56歳にて死去します。武蔵が「兵法三十五箇条」を献上した翌年のことです。
時の将軍・徳川家光は「越中(忠利)早く果て候」(死ぬのが早すぎた)と、忠利の死を嘆いたそうです。
祖父・細川幽斎や明智光秀、父・細川忠興と比べられがちではありますが、若くして徳川家からの信頼を得て細川家の家督を継いだこと、そして忠利に対する家光のこの言葉が、忠利の評価の高さを何より物語っているのではないでしょうか。
時の将軍・徳川家光は「越中(忠利)早く果て候」(死ぬのが早すぎた)と、忠利の死を嘆いたそうです。
祖父・細川幽斎や明智光秀、父・細川忠興と比べられがちではありますが、若くして徳川家からの信頼を得て細川家の家督を継いだこと、そして忠利に対する家光のこの言葉が、忠利の評価の高さを何より物語っているのではないでしょうか。
参考文献:
稲葉 継陽「細川忠利 ポスト戦国世代の国づくり」
吉川弘文館 2018年
文:成重 敏夫
吉川弘文館 2018年
文:成重 敏夫