第12話 小倉の歴史を大きく左右した合戦・大坂夏の陣

慶長20年(1615年)に行われた合戦「大坂夏の陣」。
かつて小倉の地で暮らした武将や当時の小倉藩藩主、その後小倉藩藩主となる武将など、小倉に縁の深い人物たちが遭遇した戦です。

この「大坂夏の陣」の結果が、その後の小倉藩の行く末に大きな影響を与えたといっても過言ではありません。

小倉に縁の深い武将たちは、「大坂夏の陣」でどのように交わったのでしょうか。

大坂夏の陣とは

大坂夏の陣とは、慶長20年(1615年)に江戸幕府(徳川家)と豊臣家との間で行われた合戦で、前年に行われた慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と合わせ「大坂の陣」と呼ばれています。

結果は、江戸幕府が勝利。これにより徳川の天下は盤石のものとなり、その後250年以上の長きにわたる徳川政権を確立したのです

キーパーソンは毛利勝永

大坂夏の陣で遭遇した、小倉に縁の深い武将たちの中でキーパーソンとなるのは、天正15年(1587年)に小倉城に入城した毛利勝信の子・毛利勝永です。

豊臣方から出陣した毛利勝永は、真田信繁、長宗我部盛親、後藤又兵衛、明石全登とともに大坂城の五人衆と称されます。

毛利勝永の戦闘力は、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」といわれる真田信繁を上回っていたともいわれ、江戸時代に「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず(毛利勝永は真田信繁に比べて語られることが少なかった)」と高く評価されたことが知られています。

毛利勝永と細川忠興の遭遇

毛利勝永は、大坂夏の陣の最後の戦い「天王寺口の戦い」において、まさにこのとき小倉藩藩主を務めていた細川忠興と遭遇します。

戦いを優位に進めていた勝永ですが、真田信繁が徳川家康を討ち取りきれずに力尽きたことで、劣勢に立たされます。そのため、勝永は四方から敵の攻撃を受ける状況に。勝永は戦いを続けることを不可能と判断し、やむなく大坂城へ撤退を決意します。

ここで勝永を追撃したのが、細川忠興。藤堂高虎など、歴戦の武将たちとともに勝永を追いつめます。しかし勝永は忠興らを撃退し、大坂城へ帰還します。

仮にここで、勝永が忠興を討ち取っていたら、忠興の子・忠利が小倉藩藩主となるのが5年ほど早まっていたことが考えられます。小倉の歴史も変わっていたかもしれません。

毛利勝永と小笠原忠真の遭遇

毛利勝永は、同じく「天王寺口の戦い」において、17年後の寛永9年(1632年)から小倉藩の藩主を務めることになる小笠原忠真とも遭遇。忠真の父・小笠原秀政と兄・小笠原忠脩を討ち取り、忠真にも重傷を負わせます。

父と兄が戦死したことにより、次男の忠真が小笠原氏の跡継ぎとなったのですが、ここでもし勝永が、秀政・忠脩父子に加え忠真までも討ち取っていたら、その後小倉の町にぬか漬けや茶文化が広まっていなかったことも考えられます。

細川忠興の次男・細川興秋

もうひとり、小倉に縁のある武将が大坂夏の陣に参戦しています。それは、細川忠興の次男・興秋(おきあき)。慶長6年(1601年)より、小倉城代を務めた人物です。

しかし、幕府方で参戦した父・忠興とは異なり、毛利勝永と同じ豊臣方からの参戦でした。これは、弟(三男)の忠利が家督相続者となったことに反発した興秋が、細川家から出奔(しゅっぽん)していたことによるものです。

興秋は勝永らとともに大坂夏の陣の「道明寺の戦い」「天王寺口の戦い」などで奮戦しますが、豊臣方の敗戦により、戦後に父・忠興により自害を命じられます。

まとめ

もし大坂夏の陣で、細川忠興、小笠原忠真が毛利勝永に討ち取られていたら、その後の小倉の歴史は大きく変わっていたことでしょう。

この合戦の15年前に小倉を離れた毛利勝永が、その後も間接的に小倉藩に影響を与えているのが興味深いところです。
参考文献:今福匡「真田より活躍した男 毛利勝永」宮帯出版社 2016年

文:成重 敏夫