第13話 小倉藩を治めた藩主たち①小笠原忠雄・忠基・忠総

「第11話 ぬか漬けを愛した“鬼孫”小笠原忠真」で紹介した小笠原忠真(ただざね)が寛永9年(1632年)に小倉藩に入って以降、小笠原家は約240年にわたり小倉藩を治めます。

今回から数話にわたり、忠真以降の歴代藩主を紹介いたします。

「長浜貴布禰神社神輿」を譲り受けた小笠原忠雄(第2代藩主)

小笠原忠真の次に藩主を務めたのが小笠原忠雄(ただたか)。忠真の三男です。寛文7年(1667年)から享保10年(1725年)まで、58年もの間小倉藩藩主を務めました。

小倉北区寿山町の「玉泉山 長清寺」、小倉北区上富野の「東北山 延命寺」はともに忠雄が名づけたもの。「東北山 延命寺」の寺紋には、小笠原家の三階菱が使われています。

また、毎年8月上旬に行われる北九州市のお祭り・わっしょい百万夏まつりの「夏まつり大集合」に出ている「長浜貴布禰神社神輿」は、小倉城を築城した初代藩主・細川忠興が慶長7年(1603年)に飾り神輿としてつくり、その後忠雄が細川家より譲り受けたものです。こちらの神輿にも三階菱が記されています。

忠雄は享保10年(1725年)に死去。享年79でした

東大野八幡神社の社殿を再建・小笠原忠基(第3代藩主)

忠雄の跡を継いだのは、忠雄の長男・小笠原忠基(ただもと)です。

享保17年(1732年)に、江戸四大飢饉(ききん)の一つ「享保の大飢饉」が発生。忠基は、かつてないほどの大飢饉に懸命に対処したものの、小倉藩内で約4万6千人の死者を出してしまいます。

これは当時の小倉藩の農村人口の約4分の1にあたる数字といわれており、いかに被害が大きかったかが分かります。

小倉南区母原(もはら)にある東大野八幡神社は忠基にゆかりのある神社です。

寛延2年(1749年)に忠基が奉幣[ほうへい・天皇の命により神社に幣帛(供えもの)を奉ること]したことにより社殿が再建されました。

忠基は宝暦2年(1752年)に死去。享年71でした。

藩校「思永斎」生みの親・小笠原忠総(第4代藩主)

次いで小倉藩藩主を務めたのは、忠基の六男・小笠原忠総(ただふさ)。26歳でした。

当時の小倉藩は危機的な財政難に陥っていましたが、忠総が抜擢した犬甘兵庫(いぬかいひょうご)という人物が紫川上流の埋め立てなどを行い米を増産。財政の立て直しを図りました。

また、忠総はみやこ町にある育徳館高等学校の起源である、小倉藩の藩校「思永斎(しえいさい)」を設立したことで知られています。

宝暦8年(1758年)に設立された「思永斎」は天明9年(1788年)に「思永館」と改称。小倉城に移転します。

しかし、長州戦争により、小倉藩が自ら小倉城を焼却。このときに思永館も焼失してしまいます。その後、慶応3年(1867年)に現香春町にある光願寺にて「香春思永館」を開設。

終戦後の明治2年(1869年)に小倉藩が豊津藩へと改称されたことに伴い、香春思永館も「育徳館」と改称されました。

育徳館はその後改称を重ね、昭和23年(1948年)には学制改革により「豊津高等学校」に。その後、平成19年(2007年)に歴史ある「育徳館」の名を使った育徳館高等学校と改称します。

育徳館高等学校の校章は、小笠原家の家紋の三階菱をモチーフとしたもので、三階菱を3つ組み合わせたものを背景に、校名の「育徳」の文字を中央に配置しています。

ちなみに、同じく「思永斎」をルーツに持つ小倉高等学校(小倉北区)の校章にも三階菱が使われています。

その他、忠総は明和4年(1767年)に和布刈(めかり)神社(門司区)の社殿を再建。このとき再建された社殿は現在も使用されています。

忠総は寛政2年(1790年)に死去。享年64でした。

まとめ

曾祖父の徳川家康に「鬼孫」と呼ばれた小笠原忠真に比べますと、忠雄、忠基、忠総の3人はやや地味に映るかもしれませんが、それぞれのやり方で、小倉藩を守っていったのだと思います。

それにしても、当時の寿命を考えると3人とも長寿ですね。小倉の地が合っていたのでしょうか。

参考文献:小野剛史 「小倉藩の逆襲」花乱社 2019年

文:成重 敏夫