第14話 第5代藩主・小笠原忠苗と「小笠原騒動」

昨年(2019年)11月、勝山公園にて「小倉城天守閣再建60周年 平成中村座 小倉城公演」が行われたことは記憶に新しいところです。

この公演の夜の部では「通し狂言 小笠原騒動」という作品が演じられました。

話の元になっているのは豊前小倉藩の第5代藩主・小笠原忠苗(ただみつ)が小倉藩を治めていたときに発生した騒動「小笠原騒動」です。

小笠原忠苗とは

小笠原忠苗は延享3年(1746年)に播磨安志藩2代藩主・小笠原長逵(ながみち)の三男として生まれました。長逵は第3代藩主・小笠原忠基(ただもと)の次男。つまり、忠苗は忠基の孫ということになります。

忠苗は明和9年(1772年)に第4代藩主・小笠原忠総(ただふさ)の養子となり、寛政3年(1791年)より豊前小倉藩の藩主を務めます。

小笠原忠苗にゆかりのある神社・庭園

小倉北区には、忠苗にゆかりのあるスポットがいくつかあります。
まずは小倉北区須賀町(富野地区)にある須賀神社。

須賀神社の鳥居は、忠苗が享和2年(1802年)に奉献したもので、前後左右どの角度から見ても鳥居の形をしているという独特の形状です。

小倉北区篠崎にある篠崎八幡宮も忠苗との関連があります。篠崎八幡宮の随神門の上にある大額に描かれている文字「玄監」は忠苗によるものだそうです。

また、小倉北区妙見町の妙見神社では、忠苗が参拝したときに古鏡が出土したといわれています。
この古鏡は現在、いのちのたび博物館(八幡東区)に寄託されています。

その他、忠苗にゆかりのあるスポットとしては、小倉城庭園の庭園ゾーンにある池泉回遊式庭園が挙げられます。これは、忠苗の時代につくられた回遊式庭園を再現したものです。

小笠原騒動

忠苗は、天明の大飢饉(1782年~1788年)により悪化した、藩の財政再建を目指しますが、あまりの被害の大きさに再建は難航します。

寛政4年(1792年)に出した厳しい倹約令で財政は持ち直すものの、負担の大きい農民たちは、享和3年(1803年)1月に小倉城下で家老の犬甘知寛(いぬかいともひろ)の免職と減税を強硬に訴えます。

この結果、知寛は失脚、忠苗も責任を取り、文化元年(1804年)に家督を養子の忠固(ただかた)に譲って隠居します。

この一連の騒動を「小笠原騒動」と呼びます。

余談ですが、「小笠原騒動」の中で、小倉織の袴を身につけた武士が、槍で腰を突かれた際に無傷で終わったことから、小倉織の袴が災難除けとして全国的に評判になったという話が残されています。

平成中村座が演じた「小笠原騒動」

この「小笠原騒動」を元に作られた「通し狂言 小笠原騒動」が昨年(2019年)11月1日〜26日に小倉城勝山公園(大芝生広場内)にて行われた「小倉城天守閣再建60周年 平成中村座 小倉城公演」にて上演されました。

中村勘九郎、中村獅童、中村七之助らが出演した「通し狂言 小笠原騒動」では、幕間に小倉祇園太鼓が披露され、またクライマックスでは舞台後方の壁が開いて本物の小倉城が出てくるといった演出でお客さんを大いに湧かせました。

この「平成中村座 小倉城公演」は連日満員御礼。夜の部が終わるころには会場の周りを取り囲む市民の姿も目立ち、好評のうちに幕を閉じました。

まとめ

忠苗は文化5年(1808年)2月18日に死去。享年63。

忠苗自身、第4代藩主・小笠原忠総の養子でしたが、忠苗にもまた子ができる見込みがなく、寛政6年(1794年)に、のちに第6代藩主となる忠固(ただかた)を養子に迎えていました。

この忠固の時代に、またも小倉藩に御家騒動が勃発するのですが、その話は次回紹介いたします。

参考文献:小野剛史 「小倉藩の逆襲」花乱社 2019年

文:成重 敏夫