第15話 小笠原忠固の“ある言葉”が引き起こした「白黒騒動」
前回紹介した「小笠原騒動」の約10年後、小倉藩で再び御家騒動が勃発します。きっかけは、豊前小倉藩の第6代藩主・小笠原忠固(ただかた)の“ある言葉”。
今回は、小倉藩の御家騒動「白黒騒動」を中心としたお話です。
小笠原忠固とは
その後寛政6年(1794年)に、のちに豊前小倉藩第5代藩主となる小笠原忠苗の養嗣子に。 「小笠原騒動」により忠苗が隠居したことで、文化元年(1804年)に家督を継ぎました。
朝鮮通信使正使の接待役に
20代中盤まで「部屋住み」だった人物が、35歳で大きな藩の藩主となり、そして38歳で将軍の名代に。
この目まぐるしい変化が忠固の考えに大きな影響を与え、これから説明する御家騒動の引き金になったのかもしれません。
白黒騒動
文化11年(1814年)、小倉藩の御家騒動「白黒騒動」が起こります。
「大老になりたい」
冒頭に書いた「白黒騒動」を引き起こした忠固の“ある言葉”とは、「大老になりたい」というものでした。
大老とは、老中の上に臨時に置かれた幕府最高の職のこと。当然、簡単に就けるものではありません。
そこで忠固は、江戸詰めの家老、小笠原出雲に相談します。多額の出費を心配した出雲は反対しますが、国許の四人の家老が出雲を説得。出雲は渋々受諾します。
当時、小倉藩にあった多くの貯えは、幕閣(幕府の最高首脳部)への接待のため消えていきました。
約360人の藩士が黒崎宿に籠城
貯えを失った小倉藩は、文化10年(1813年)に藩士に支給する棒禄米の一部削減を実施。不満を持った藩士は、家老の突き上げを行います。
ここで、出雲を説得した四人の家老は態度を180度変え、今度は忠固を大老とするための工作を中止するよう申し入れます。
元々、忠固を大老とすることを良しとしていなかった出雲は当然激怒します。
出雲は江戸から小倉城に戻り、忠固と相談。翌朝、出雲は小倉城の鉄門(くろがねもん)を閉ざし、藩士の登城を阻止。出雲の説得にあたった四人の家老を罷免するなど、藩の人事に大きく手を加えます。
罷免された四人の家老は、約360人の藩士とともに脱藩。黒崎宿に籠城します。
現在は、小倉も黒崎も同じ北九州市ですので移動も容易です。しかし当時は、小倉は豊前国で黒崎は筑前国と別の国です。「脱藩」は大きな罪であることを考えると、脱藩した藩士たちの本気度が分かります。
脱藩した藩士たちは、自らを元の役職に戻すことなどを小倉藩に要求。これが通ったことで、3日後に小倉藩に戻ります。
この一連の事件は「白黒騒動」と呼ばれています。小倉城の「城=白」と、黒崎の「黒」から取ったものです。
「小笠原家の勲功」に救われた忠固
これだけの騒動ですから、当然幕府の耳にも入ります。
幕府の裁定により出雲は失脚、反対派の一部の藩士は処刑されますが、忠固の刑はさほど重くならずにわずか100日間の閉門蟄居(禁固刑)に。
罪が軽くなった理由のひとつは、いわゆる「小笠原家の勲功」。
つまり、かつて徳川家康を守って勇敢に戦死した小笠原秀政(豊前小倉藩初代藩主・小笠原忠真の父)の手柄によるものです。
また、忠固自身の「幕府に対する忠誠心」も罪を軽くしたといわれています。「大老になりたい」という発言も、幕府に対する気持ちがあってのこと、と判断されたようです。
小笠原忠固と関わりの深い場所・祭り
忠固にゆかりのある場所と祭りを紹介いたします。
まずは、みやこ町にある小笠原神社。小倉藩(後に豊津藩)の藩主であった小笠原家の祖霊を祀る神社です。
忠固は、文化4年(1807年)に小倉城内に社を建立します。
慶応2年(1866年)に長州戦争による小倉城焼失に伴い、門司の和布刈神社に合祀。
その後、みやこ町の八景山に移り、後に招魂社(現八景山護国神社)と合祀。
そして明治18年(1885年)に「小笠原神社」として現在の場所に移ったそうです。
豊前市で毎年5月上旬に行われる宇島祇園(うのしまぎおん)も忠固とのかかわりが深い祭りです。
文政8年(1825年)、忠固が参勤交代の途中に大しけに遭遇。あわや遭難というところを宇島の漁民が漁船で忠固の船を曳航したという出来事がありました。
これを記念して、翌年の文政9年(1826年)より、殿様祭りとして祇園祭を執り行うようになったとのことです。
まとめ
39年間にわたり藩主を務めた忠固は、天保14年(1843年)に死去。享年73でした。
参考文献:小野剛史 「小倉藩の逆襲」花乱社 2019年
文:成重 敏夫