第16話 小倉藩を治めた藩主たち④ 小笠原忠徴・忠嘉・忠幹・忠忱
豊前小倉藩の第7代藩主・小笠原忠徴(ただあきら)から第10代藩主・小笠原忠忱(ただのぶ)の4人の藩主を紹介いたします。
小倉藩では「小笠原騒動」「白黒騒動」といった御家騒動のあとも、さまざまな出来事がありました。
第7代藩主・小笠原忠徴
当時の小倉藩は財政難。前回紹介した「白黒騒動」の影響もあり、この頃の小倉藩は混迷を極めていましたが、忠徴が積極的に藩政改革に取り組んだこともあり、小倉藩はやや持ち直します。
忠徴は安政3年(1856年)に死去。享年49でした。
第8代藩主・小笠原忠嘉
天保10年(1839年)に小倉新田藩(こくらしんでんはん=小倉藩の支藩)第5代藩主・小笠原貞哲の四男として生まれた忠嘉は、13歳で小倉新田藩藩主に。そして安政元年(1854年)、忠徴の養嗣子ととなります。
安政3年(1856年)に家督を継いだ忠嘉は、藩政の再建をさらに進めますが、万延元年(1860年)に22歳の若さで病死。
忠嘉の墓は、初代藩主・小笠原忠真が創建した広寿山福聚寺(小倉北区)に建てられています。
第9代藩主・小笠原忠幹
続いて第9代藩主となったのは、小笠原忠幹(ただよし)。第3代藩主の小笠原忠基の玄孫(やしゃご=ひ孫の子ども)にあたります。
忠幹が生まれたのは播磨安志藩(はりまあんじはん)。現在の兵庫県姫路市です。安志藩の藩主は、第2代藩主・小笠原長逵(ながみち)以降、忠基の子孫が務めていました。
忠幹も13歳のときから播磨安志藩の藩主を務めていましたが、第8代小倉藩藩主の忠嘉が若くして亡くなったことにより、34歳となった万延元年(1860年)に本家の家督を相続。第9代小倉藩藩主となりました。
しかし忠幹は慶応元年(1865年)に39歳で死去します。このとき、忠幹の次男・忠忱(ただのぶ)は、まだ4歳でした。小倉藩は第二次長州征伐に備えていたところで、葬儀を行うこともできません。
幼い忠忱が藩主として戦争の指揮を執れるはずもなく、忠幹の死は隠されることとなりました。忠幹の死が公にされたのは、第二次長州征伐の終盤に小倉城を自焼し、藩庁を香春に移した後の慶応3年(1867年)のことでした。
忠幹ゆかりの場所
文久2年(1862年)、忠幹が篠崎神社の大宮司・川江直種に命じて本殿とは別に社殿を造立します。このときに、忠幹が額を奉納したとされています。
小倉藩最後の藩主・小笠原忠忱
第二次長州征伐は慶応3年(1867年)1月に小倉藩、長州藩の和約で終了します。そして3月には藩庁を正式に小倉から香春へ移転。
同年6月に父忠幹の死亡を幕府に届け、6歳の忠忱が家督を継ぎ、香春藩藩主となりました。明治2年(1869年)、版籍奉還により忠忱は香春藩知事に、その後藩庁を豊津(現みやこ町)に移し豊津藩知事となります。
そして明治4年(1871年)、廃藩置県により知事職を解任されます。その後忠忱は、留学のためイギリスへ。帰国後には私財を寄付して豊前育英会を設立し、郷土の人材育成につくします。
明治17年(1884年)には伯爵に任じられ、また明治23年(1890年)に貴族院議員となるなど幅広く活動しますが、明治30年(1897年)に36歳の若さで死去します
まとめ
「小笠原騒動」「白黒騒動」といった御家騒動を含め、さまざまな出来事が起こりましたが、そのひとつひとつが小倉という町を作ってきたのだと思います。
それにしても、今回取り上げた4人の藩主が、以前の藩主に比べると早く亡くなっていることが気になるところです。
しかし今回紹介した4人の中で、最も長生きしたのが49歳で亡くなった忠徴。あとの3名は20代、30代で亡くなっています。
時代背景などによるのかもしれませんが、少し不思議ですね。
参考文献:小野剛史 「小倉藩の逆襲」花乱社 2019年
文:成重 敏夫