第18話 小倉城、太鼓を奪われる

前回の「小倉戦争と小倉城自焼」では、小倉藩軍が小倉城を自焼し、香春に撤退したところまで紹介いたしました。しかし、城を失い撤退しても、小倉藩軍の戦いはまだ終わりません。

香春に撤退した小倉藩軍の奮闘

香春に撤退した小倉藩軍は、家老島村志津摩を中心に軍を再編。

企救郡南部の金辺峠[きべとうげ](小倉南区呼野と田川郡香春町採銅所を結ぶ峠)及び狸山(現在の小倉南区朽網東)に防衛拠点を築き、高津尾(現在の小倉南インター近く)を前線基地として長州軍に遊撃戦を挑みます。

香春に撤退して以降の小倉藩軍の奮闘ぶりは、長州藩軍の山縣狂介を慌てさせたとも。

小倉藩軍は、小倉城下の守備が手薄になったすきに小倉城に突入。自焼時に持ち出すことができなかった書類や物品を運び出すことに成功しました。

長州征伐(幕長戦争)は休戦していた?

小倉藩軍が、小倉城から書類や物品を持ち出したのは9月9日のことでした。しかし、この長州征伐(幕長戦争)は、9月2日に休戦となっていたのです。

なぜ小倉藩軍は戦い続けていたのでしょうか。

幕府側で休戦を推し進めたのは、のちの15代将軍・徳川慶喜でした。徳川慶喜は長州藩との休戦交渉のために、軍艦奉行を務めていた勝海舟を広島に派遣します。

勝海舟は厳島で長州藩代表の広沢真臣・井上馨らと交渉。小倉口、芸州口、石州口の各戦線で休戦する協定が9月2日に成立しました。

ところが、小倉藩への深い恨みを持つ長州藩はこの協定を無視し、小倉藩への攻撃をやめなかったそうです。小倉藩にとって不運だったのが、他の戦線が協定通り休戦したこと。これにより長州藩軍の兵力が増強します。

9月9日に小倉城への突入を許した長州藩軍ですが、10月4日には蒲生村、守恒村を、5日は志井村、7日には高津尾村を攻めます。そして長州藩軍は母原口から平尾台に突入。平尾台を占領します。

多くの防衛拠点を失った小倉藩は、戦を続けることが厳しくなり、薩摩藩、熊本藩の仲裁のもと、長州藩との停戦交渉を開始します。

豊千代丸(のちの第10代小倉藩藩主・小笠原忠忱)を人質に要求されるなど、交渉は難航しましたが、翌慶応3年(1867年)1月26日に和議が成立。小倉藩は藩の中心である小倉城下と企救郡を長州軍に明け渡し、事実上の降伏となりました。

これにて小倉戦争は終了。

期間としては7ヶ月足らずではありましたが、小倉藩にとっては長く苦しい戦いだったことでしょう。そして間もなく、長らく伏せられていた第9代小倉藩藩主・小笠原忠幹(ただよし)の死が公表されました。

小倉城の太鼓を奪われた?

実は、この小倉戦争で小倉藩は長州藩から太鼓を奪われています。自焼した小倉城の中から、長州藩の奇兵隊が戦利品として持ち帰ったというのです。

時を告げていたというこの太鼓は、小倉城のシンボルであったといえるでしょう。

この太鼓は、高杉晋作が戦勝祈願を行った嚴島神社(下関市)に大御神へのお礼として奉納されたそうです。現在でも本神社にて見ることができ、毎年9月第一土曜日には、太鼓祭が行われています。

小倉藩のその後

その後、小倉藩は慶応3年(1867年)3月に藩庁を正式に香春へ移転。香春に藩庁を置いていたこの時期は、後年香春藩(かわらはん)と呼ばれるようになります。

さらに、明治2年12月には京都郡豊津(現みやこ町)に藩庁を移して豊津藩(とよつはん)に。

明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により豊津県となったのち、小倉県となります。その後福岡県と合併し、小倉県は消滅します。

ちなみに、小倉県庁として使われていた建物の一部がリバーウォーク北九州(小倉北区)の向かいに残っています。小倉警察署としても使われたこの建物は、国の登録有形文化財にも認定されています。

まとめ

以上が小倉戦争、そして小倉藩の最期となります。

城を失い太鼓を奪われ、町の中心部を他藩に明け渡してしまうなど、この時代の小倉藩は満身創痍状態だったといっても良いでしょう。

その後、小倉城の天守閣が再建されたのは、およそ100年が経過した1959年(昭和34年)。この話はまた別の機会に紹介したいと思います。

参考文献:小野剛史 「小倉藩の逆襲」花乱社 2019年

文:成重 敏夫

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