第20話 「鴎外橋」「鴎外通り」など小倉に名を残す文豪・森鴎外

小倉の井筒屋本館あたりから小倉城方面に向かって架けられている橋を「鴎外橋」といいます。これは、“明治の文豪”として名高い森鴎外にちなんだもの。

小倉北区に「森鴎外旧居」があることでもわかるように、森鴎外は小倉の町に非常に縁の深い人物です。

今回は、小説家、陸軍軍医、医学博士、文学博士などさまざまな顔を持つ森鴎外と小倉とのかかわりを紹介いたします。

森鴎外の生い立ちとドイツ留学

森鴎外は文久2年(1862年)、石見国(現在の島根県)で生まれます。

第一大学区医学校(現・東京大学医学部)を卒業後にドイツに留学。明治21年(1888年)に帰国するまでの約4年間をドイツで過ごします。

帰国後の明治22年(1889年)から本格的な文筆活動を開始。ドイツ留学を生かした「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」から成り立つ、「ドイツ三部作」を生み出しました。

ドイツ留学時には、前回の「小倉城ものがたり」で紹介した乃木希典と遭遇したそうです。この出来事も、鴎外の執筆活動に大きく影響を与えました。

森鴎外と小倉の町とのかかわり

明治32年(1899年)に森鴎外は第十二師団の軍医部長として小倉に着任。

最初の1年半は現在の小倉北区鍛冶町に住んでいました。この場所は「森鴎外旧居」として北九州市の指定文化財に指定されており、無料で一般公開されています。

その後、鴎外は京町に転居。現在、小倉駅南口のマクドナルド正面にあるエレベーター脇にある「森鴎外京町住居跡碑」に、「京町の家はこの碑の南二十五メートルの場所にあった。」と記されています。

鴎外は小倉で過ごした2年9ヶ月の日々を「小倉日記」と呼ばれる日記に記していました。

この間の活動は、軍医部長としての務めのほかに雑誌や新聞の連載、そして講演会や講座などでの市民との交流など。

小説家としての印象の強い鴎外ですが、意外にも小倉にいる間は一本も小説を書いていません。小倉三部作と呼ばれる、小説「鶏」「独身」「二人の友」は全て帰京後に執筆されたものです。

明治35年(1902年)3月に鴎外は小倉を去ることになったのですが、なんと見送りには千人を超える人たちが集まったとのこと。軍医部長として、そして作家として市民に愛されていたのでしょう。

その後の森鴎外

東京に戻った森鴎外は執筆活動を精力的に継続。

大正元年(1912年)には、ドイツで出会った乃木希典の死に衝撃を受け、短編小説「興津弥五右衛門の遺書」をわずか五日で書き上げます。鴎外はこれを機に歴史小説家に転じ、その後も多くの作品を発表します。

そして大正11年(1922年)に肺結核のため死去。享年60でした。

森鴎外に強い関心を持つ松本清張

北九州市出身の小説家・松本清張は森鴎外への関心が強く、鴎外をモチーフにした作品をいくつも執筆しています。

その一例は以下の通りです。

・「或る『小倉日記』伝」:鴎外の「小倉日記」の行方を探すことに生涯をささげた人物を主人公として描いた短編小説

・「鷗外の婢」:鴎外の「小倉日記」に描かれた女中に興味を惹かれた人物を主人公にした推理小説

・「両像・森鴎外」:清張による森鴎外の評伝

清張が「或る『小倉日記』伝」を発表したのは昭和27年(1952年)ですので、鴎外との直接的な接点はなさそうですが、それだけに清張の鴎外に対する関心の高さは興味深いところです。

森鴎外にまつわる施設など

小倉には、森鴎外にまつわる施設などが点在しています。

まずは先に紹介した「森鴎外旧居」(小倉北区鍛冶町)。

「森鴎外旧居」の前の通りは「鴎外通り(オーガイストリート)」と名づけられています。

この「鴎外通り(オーガイストリート)」を小倉城方面に歩くと、紫川に架かる「鴎外橋」に着きます。秋から冬にかけ「光のトンネル」として花と光で綺麗に飾られている「鴎外橋」はおなじみのスポットですね。

鴎外橋を渡り終えると「森鴎外文学碑」を目にすることができます。この碑には小説「鶏」「独身」「二人の友」の小倉三部作、随筆「我をして九州の富人たらしめば」と「小倉日記」の各一節が刻まれています。

そしてその先には小倉城が。森鴎外旧居と小倉城は、ほぼ一直線の道でつながれているんですね。

さいごに

小倉の人にとって、森鴎外は「鴎外橋」「森鴎外旧居」などでとても身近に感じる存在です。

作品も小倉にちなんだものが多く、ぜひ一度読んでみることをおすすめします。

小倉城にお越しの際は「鴎外橋」を渡り、「森鴎外文学碑」を読みながら鴎外に思いを馳せてみるのはいかがでしょうか。

参考文献:北九州森鷗外記念会 「森鷗外小倉時代の業績」2012年
文:成重 敏夫