第25話 小倉城と二張の大太鼓

小倉城の展示物の中で、とりわけ目立つのが天守閣二階に展示されている大太鼓です。

説明書きには「藩政時代に小倉城天守閣の最上階に置かれており、事あるごとに城下の人々に急を告げていたと伝えられている」と書かれており、この大太鼓は当時の小倉城下に欠かせないものであったことがわかります。

しかし、「小倉藩の大太鼓」といえば嚴島神社(下関市)に釣り下げられているものをイメージする方も少なくないのではないでしょうか。

「では、小倉城の天守閣に陳列されている大太鼓はどこから来たの?」と、疑問に思った方もいらっしゃるかもしれません。

今回の小倉城ものがたりは、小倉城にまつわる二張の大太鼓の話です。

嚴島神社の大太鼓

1866年(慶応2年)に江戸幕府が長州藩に攻め入った「第二次長州征伐」での戦に「小倉戦争(小倉口の戦い)」と呼ばれるものがあります。

この「小倉戦争」において、小倉城は長州藩に攻め落とされてしまいました。このとき、長州藩の奇兵隊が小倉城にあった太鼓を戦利品として持ち帰ったといわれています。

その後、この太鼓を長州藩士・高杉晋作が戦勝祈願を行った嚴島神社(下関市)に奉納。以降この太鼓は150年以上にわたり、嚴島神社に置かれています。

小倉城天守閣の大太鼓

一方、小倉城天守閣に展示されている大太鼓は、「小倉戦争」にて行方不明となった後、小倉郷土会の調査により昭和43年(1968年)に発見されたものです。

太鼓の内側には「寛永三捻丙寅初春、依藩命謹製、太鼓師明石住直吉」と書かれているとのこと。

これは、「寛永3年(1626年)、丙寅[ひのえとら]の初春に、藩(殿様)の命により明石に住む太鼓師・直吉が心を込めて制作しました」という意味です。

寛永3年の小倉藩藩主は細川忠利が務めていましたが、この太鼓は忠利ではなく、のちに小倉藩藩主となる小笠原忠真が作らせたものではないかと考えられています。

忠真は当時、播磨国明石藩藩主を務めていました。この大太鼓は忠真が治めていた時代の明石藩で作られたもので、忠真が小倉に転封したときに明石藩から小倉藩に運ばれたものとされています。

この大太鼓は、発見された昭和43年の6月22日に返還式が、そして7月6日に入城式が行われました。それ以来、小倉城天守閣にずっと展示されています。

小倉城の大太鼓は一般的な大太鼓の2.5倍

小倉城天守閣で太鼓をご覧になった方は、その大きさに驚いたのではないでしょうか。
直径は四尺(1.2メートル)、長さは五尺三寸(1.6メートル)、重さは390キログラムです。

一般的な和太鼓の直径が一尺四寸から五寸(42~45センチメートル)とされていますので、約2.5倍の大きさです。

胴の材質は欅(けやき)。牛一頭分の皮が使われています。

この大きな太鼓は、小倉城天守閣の二階に展示されています。

実際に叩くことはできませんので、当時の小倉城下の人々になった気分でこの大きな太鼓から繰り出される音を想像してみてはいかがでしょうか。

参考文献:北九州市立自然史歴史博物館「小倉城と城下町」海鳥社、2020年
文:成重 敏夫