第26話 「軍都としての小倉」を偲ばせる二ヶ所の軍施設跡

明治維新以降、本州と九州を結ぶ交通の要衝である小倉は、軍都としての性格を帯びるようになりました。小倉城内にも大日本帝国陸軍の施設が置かれるようになり、現在でもその名残を見ることができます。

今回の「小倉城ものがたり」は小倉城内に二ヶ所ある軍施設の跡、そしてその間に位置する鉄門(くろがねもん)を中心に紹介します。

第十二師団司令部正門跡

一ヶ所目は「第十二師団司令部正門跡」。

レンガ造りの立派な門が当時のまま残っています。

第十二師団司令部とは、明治31年(1898年)から大正14年(1925年)まで存在した大日本帝国陸軍の師団(=軍隊の部隊を編成する単位)のことです。

小倉に初めて配置された軍隊は「西海道鎮台(さいかいどうちんだい)」。明治4年(1871年)のことでした。その後、明治8年(1875年)に歩兵第十四連隊が置かれます。

以前この「小倉城ものがたり」で紹介した乃木希典が、この歩兵第十四連隊で隊長心得を務めていました。

そして明治31年(1898年)、日清戦争終了後の軍備拡張政策の中で小倉に第十二師団が新設されます。第十二師団司令部の庁舎は小倉城本丸跡に建てられ、その他の部隊や施設も小倉城内に設置されました。

ただし全て収容することは難しく、企救郡北方村(現在の小倉南区北方)にも兵営(軍人が住む兵舎のある地域)が置かれました。現在、この場所は陸上自衛隊小倉駐屯地となっています。

明治32年(1899年)6月から2年10ヶ月の間、第十二師団の軍医部長を務めていたのが、文豪としても名高い森鴎外でした。鴎外もこのレンガ造りの門を通って登庁していたとのことです。

当時、鴎外は現在の「森鴎外旧居」(小倉北区鍛冶町)に住んでいましたので、距離にして1.2km程度を歩いて通っていたのでしょう。

なお、この第十二師団司令部は大正14年(1925年)に軍縮のため、久留米に移転しました。

歩兵第十二旅団本部正門跡

二ヶ所目は「歩兵第十二旅団本部正門跡」。

「第十二師団司令部正門跡」そばの階段を下った正面に見える白い門です。

歩兵第十二旅団は明治18年(1885年)に松ノ丸跡に置かれました。旅団とは、師団と同じく軍隊の部隊を編成する単位。師団よりも小さな単位です。

この門柱はレンガ積みの上から白いモルタルで覆われています。

このように加工された時期ははっきりしないとのことですが、大正14年(1925年)の野戦重砲第二旅団司令部の移駐に伴うものであった可能性があるそうです。

鉄門(くろがねもん)

「第十二師団司令部正門跡」、「歩兵第十二旅団本部正門跡」の二ヶ所の軍施設跡に挟まれている、鉄門(くろがねもん)を紹介しましょう。

鉄門は小倉城にある8つの門のうちのひとつで、武士などの登城口として使用されていました。

鉄門に向かって右側の石垣と階段は復元されたものですが、左側の石垣と階段は往時のものがそのまま残されています。

左側の石垣をよく見ると、赤く変化していることが分かります。

これは、慶応2年(1866年)の「小倉戦争(小倉口の戦い)」にて小倉城が自焼した際に火熱を受けて変色したものだそうです。

さいごに

小倉城内には「第十二師団司令部正門跡」、「歩兵第十二旅団本部正門跡」に加え、それぞれの石碑も建てられています。

小倉城へお越しの際は、ぜひこちらにもお立ち寄りください。

参考文献:北九州市立自然史歴史博物館「小倉城と城下町」海鳥社、2020年/北九州市ホームページ
文:成重 敏夫