第27話 小倉城の総構えと城下町

小倉は城下町として栄えた歴史を持つ町です。

城下町の礎を作ったのが、初代小倉藩藩主の細川忠興(ただおき)。そして、その城下町をにぎわいの町につくり上げたのが、寛永9年(1632年)から小倉藩の藩主を務めた小笠原忠真(ただざね)です。

今回の「小倉城ものがたり」は小倉城の城下町にまつわる話を紹介します。

城や城下町を囲む「総構え」

城や城下町一帯の外周を堀や石垣で囲い込んだ構造を、総構え(そうがまえ)といいます。

総構えのお城として挙げられるのが、北条氏の本拠地・小田原城、羽柴氏の本拠地・大坂城、そして徳川氏の本拠地・江戸城です。

総構えの特徴は、守りに強くて攻略が難しいこと。先に挙げた三つの城はいずれも「難攻不落」といわれていました。

ちなみに、小田原城の総構えは周囲が約9km、大坂城の総構えは周囲が約8km、そして江戸城は日本一長く16kmとかなり広大なものとなっています。

実は、小倉城もこの総構えの形式を採っています。総構えの周囲の長さは8km。大坂城と同じくらいの広さです。

城の周囲が公園として整備されている大坂城とは異なり、現在の小倉城の周辺には商業施設や住居があるため想像しにくいかもしれませんが、総構えの長さはほぼ同じです。

当時の小倉城が随分と広かったことがわかります。

「豊前国小倉城絵図」(国立公文書館蔵)

細川忠興による小倉城の大改修

小倉に総構えの城を築いたのは細川忠興。慶長7年(1602年)より小倉城の大改修を進めました。

忠興は、小倉城の東を流れる紫川、西を流れる板櫃川、南を流れる寒竹川(現在の神嶽川)を天然の堀として利用します。

そして寒竹川の下流付近から北の響灘に向かって掘り抜き、寒竹川の水を通して東の外堀(現在の砂津川)としました。

これにより、海と堀に囲まれた周囲8kmに及ぶ総構えと呼ばれる小倉城が完成しました。

海に面して築かれた城を海城と呼びますが、これは先ほど挙げた小田原城、大坂城、江戸城にはない小倉城の特徴です。

小倉城の総構えの内側

では、小倉城の総構えの内側を紹介していきます。

総構えの内側は、おおむね西曲輪(にしくるわ)、東曲輪、帯曲輪の三つの曲輪で構成されていました。曲輪とは、石垣や堀などで囲まれた区画のことをいいます。

西曲輪

紫川の西側が西曲輪と呼ばれていた区域です。

西曲輪は、小倉城の本丸、北ノ丸(現在の八坂神社周辺)そして松ノ丸(松本清張記念館そばの西の口門を入って右の広場)が中心となっていました。

そして、北部は現在の室町付近、南部は現在の篠崎中学校あたりとなります。東西の端はそれぞれ紫川と板櫃川です。

西曲輪は北部と南部に武士、その間の地域に町人が住んでいました。

東曲輪

紫川の東側は、東曲輪と呼ばれていました。

北部は現在の京町や米町、そして南端は中島(TOTOさんの本社周辺)あたりです。

こちらは主に町人が住む地域でしたが、小笠原氏の時代には武士も住むようになったといわれています。

この西曲輪と東曲輪を結ぶ橋として架けられたのが、以前の「小倉城ものがたり」で紹介した常盤橋です。

帯曲輪

そして、西曲輪の北西にあったのが帯曲輪。

こちらは西曲輪、東曲輪より遅く作られたといわれています。

東側(現在の鋳物師(いもじ)町周辺)には町人が、西側(現在の平松町周辺)には武士が住んでいました。

さいごに

小倉城は四方を海と川で囲まれていた「総構え」という構造です。

周囲が8kmということで、かなり広い区域であったことがわかります。

自動車や徒歩で、ぜひこの広さを体験してみてください。

そしてその内側で栄えた城下町。室町、魚町、米町などの地名は当時から使われており、非常に歴史のある町といえるでしょう。地名の由来などは、また別の機会に紹介したいと思います。

参考文献:北九州市立自然史歴史博物館「小倉城と城下町」海鳥社、2020年/北九州市ホームページ
文:成重 敏夫