第30話 小倉藩初代藩主・細川忠興と明智光秀の三女・ガラシャの婚姻
小倉藩初代藩主・細川忠興とその妻・ガラシャ。
忠興は知勇兼備の武将として名高く、一方のガラシャも才色兼備と謳われ戦国時代の女性の中でもよく知られた存在です。
2020年に放映されているNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、忠興の活躍だけでなくガラシャの少女時代も描かれるとのこと。この両名の注目度も高まっているのではないでしょうか。
今回の「小倉城ものがたり」は、忠興とガラシャの婚姻にまつわる話を紹介いたします。
忠興とガラシャは信長のすすめで婚姻
細川忠興は永禄6年(1563年)、当時足利義輝に仕えていた細川藤孝(のちの幽斎)の長男として京都で生まれます。
細川ガラシャも同じく永禄6年(1563年)の生まれ。明智光秀の三女として越前国(現在の福井県)で生まれます。本名は明智 玉(あけち たま)。
忠興の父・藤孝とガラシャの父・光秀はのちに、互いに織田信長に仕える武将として“盟友”と呼ばれる深い間柄となります。
忠興と玉との婚姻が決められたのは、天正2年(1574年)の正月のこと。信長に仕える武将が岐阜城に集結したときに、信長に命令されたとされています。
細川家と明智家の関係を深くすることが、その後の信長にとって必要だったのでしょう。このとき、忠興も玉もわずか10歳でした。
天正5年(1577年)3月、紀州征伐に加わり初陣を飾った忠興は、その後も石山本願寺への攻撃や荒木村重の討伐に加わり戦功をあげます。
若くして能力を発揮する忠興を、信長は高く評価。天正6年(1578年)の元服の際に自らの長男・信忠の一字を与えます。
そして同年8月に忠興と玉は、当時細川氏が治めていた山城国(現在の京都府長岡京市)勝龍寺城にて結婚します。ふたりが15歳のときのことでした。
この婚姻により、細川家と明智家の結びつきはさらに強くなります。
玉は天正7年(1579年)に長女を、翌天正8年(1580年)には長男・忠隆を出産します。
一方、忠興も天正7年(1579年)の丹波・丹後平定にて、藤孝とともに丹後十二万石を与えられます。翌年、忠興は18歳にして丹後の国主に。
また、玉は義父・藤孝との間柄も良好で、藤孝が得意とする琴や笛、和歌をたしなむことで心が通い合っていたとされています。
忠興と玉の新婚生活は、順風満帆と思われました。
忠興とガラシャの結婚生活が一変した「本能寺の変」
しかし、天正10年(1582年)の本能寺の変にて忠興と玉の夫婦生活は一変します。
父・光秀が信長を襲撃したことで、玉は「謀叛人の娘」の烙印を押され、夫の忠興により丹後国の味土野(みどの)に幽閉されてしまいます。
羽柴秀吉の取りなしにより、天正12年(1584年)に大坂に戻った玉は、このころからキリスト教に傾倒。天正15年(1587年)に受洗し、「ガラシャ」という洗礼名を受けました。
忠興は妻の改宗を知って大きく憤ったとされています。怒りのあまり、家老・家臣を追放したとも。ただしこれは、当時仕えていた秀吉がバテレン追放令を出した直後であり、細川家を守るためにもこうせざるを得なかったという見方もあるようです。
慶長5年(1600年)、徳川家康に従って上杉征伐に出陣した忠興は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣に命じます。
敵の石田三成は、忠興が不在になったところで細川屋敷を取り囲み、ガラシャを人質に取ろうとします。しかしガラシャはそれを拒否。自らの命を絶とうとしますが、キリシタンであり自害が許されないため、家老・小笠原少斎に胸を長刀で突かせて絶命しました。
忠興のガラシャへの深い愛情の表れ・追悼ミサ
ガラシャの改宗に大きく憤ったとされる忠興ですが、ガラシャの死後は彼女をキリスト教に導いたグレゴリオ・デ・セスペデス神父を小倉藩に招きます。
セスペデス神父は慶長6年(1601年)に教会を設立し、慶長16年(1611年)に亡くなるまで、忠興の命によりガラシャの追悼ミサを行ったといわれています。
小倉城に展示されているジオラマでも、この追悼ミサの様子が描かれています。
ガラシャの父・明智光秀が起こした「本能寺の変」により、忠興とガラシャの結婚生活は大きく変わり、その後もガラシャの改宗等でふたりの間には行き違いもあったようです。
しかし、キリスト教を嫌悪していたとされる忠興が、ガラシャの死後に神父を呼び寄せ長らく追悼ミサも行わせていたことを考えると、忠興のガラシャへの愛情はとても深いものであったのではないでしょうか。
参考文献:米原正義「細川幽斎・忠興のすべて」新人物往来社、2000年/上総英郎「細川ガラシャのすべて」新人物往来社、1994年/田畑泰子「細川ガラシャ -散りぬべき時知りてこそ-」ミネルヴァ書房、2010年
文:成重 敏夫