第31話 細川忠興から妻・ガラシャへの「思い」とは

前回の小倉城ものがたりでは、小倉藩初代藩主・細川忠興と明智光秀の三女・ガラシャとの婚姻について紹介いたしました。

今回と次回の2回にわたり、それぞれの立場から相手に対する思いを掘り下げていきたいと思います。まずは、細川忠興から妻の玉(ガラシャ)への思いを紹介いたします。

細川忠興とは

細川忠興は永禄6年(1563年)、足利義輝に仕えていた細川藤孝(のちの幽斎)の長男として京都にて誕生しました。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の有力者に仕え、知勇兼備の武将として活躍。

一方、茶の道にも通じており「利休七哲」の一人に数えられるなど、千利休の最も優秀な弟子であったことでも知られています。

関ヶ原の戦いでの功績で豊前一国、豊後の二郡の30万石が与えられた忠興は、慶長5年(1600年)に中津城に入城。その後慶長7年(1602年)に小倉城へ居城を移します。

小倉藩初代藩主となった忠興は、京都の町を手本に小倉の町づくりに着手。小倉祇園太鼓も忠興が「京の文化」のひとつとして取り入れたものです。

明智玉(細川ガラシャ)との結婚

忠興は天正6年(1578年)、織田信長の勧めにより明智光秀の三女・玉と結婚します。忠興も玉もこのとき15歳。

戦国一といわれるほどの美貌を持つ妻・玉を、忠興はとても大切にしたそうです。

愛情が強すぎるあまり、玉を他の男の目に触れさせないために屋敷の奥には誰も立ち入らせなかった、自身の留守中には玉を外出させなかったなどの話が残されています。

忠興の愛情に守られた玉は、天正7年(1579年)には長女を、そして天正8年(1580年)には長男・忠隆を出産します。結婚生活も順風満帆なスタートを切ったように見えましたが、その後のある事件により忠興と玉の結婚生活は一変します。

天正10年(1582年)、玉の父・明智光秀が謀反を起こして織田信長を襲撃します。(本能寺の変)

光秀は、玉を嫁がせている細川家(藤孝・忠興父子)に加担を求めますが、ふたりはそれを拒否。忠興は妻・玉を丹後国の味土野(みどの)に幽閉します。

その後、光秀は山崎の戦いにて羽柴秀吉に敗れ命を落とします。

光秀をはじめとする明智一族と重臣たちは、本能寺の変のあと十日あまりで皆姿を消したとのこと。結果として、味土野に幽閉することで幽斎と忠興は玉を守ったことになります。

玉の改宗に怒る忠興

忠興は、光秀の謀反により細川家にかけられた嫌疑を晴らすため、そして妻・玉を取り戻すために羽柴秀吉への忠勤に励みます。

その甲斐あって忠興は秀吉に認められ、天正12年(1584年)に秀吉の取りなしにより、玉は大坂の細川屋敷に移りました。

この頃から玉はキリスト教に傾倒し、天正15年(1587年)に受洗。「ガラシャ」という洗礼名を受けました。

玉の入信に対して忠興は怒り心頭。玉に強く改宗を迫ります。秀吉がバテレン追放令を出した直後であることに加え、ガラシャが信仰するキリスト教への嫉妬がその理由であると言われています。

妻・ガラシャを亡くす

慶長5年(1600年)、忠興は徳川家康に従って上杉景勝討伐に出陣。

忠興は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣に命じます。

これを機に石田三成が挙兵。家康と共に上杉討伐に出た諸大名の妻子を人質にしようとします。

大坂玉造の細川邸も包囲しガラシャらを人質に取ろうとしますが、これを拒否したガラシャは死を選択。ガラシャはキリシタンであり自害できないことから、家老・小笠原少斎に胸を長刀で突かせたとされています。

忠興のガラシャへの思い

ガラシャの壮絶な死を受け、忠興は翌慶長6年(1601年)に、大坂の教会でオルガンティノ神父にガラシャの葬儀を行わせます。

また、ガラシャをキリスト教に導いたグレゴリオ・デ・セスペデス神父を小倉藩に招聘。セスペデス神父が慶長16年(1611年)に亡くなるまで、ガラシャの追悼ミサを行わせたそうです。

キリシタンに寛容となった忠興でしたが、慶長18年(1613年)に幕府からキリシタン禁止令が出されるとそれに従い領内のキリシタンを追放。寛永4年(1627年)頃には、ひとりのキリシタンもいなくなったとされています。

思うに、忠興は熱心なキリシタン武将として知られる高山右近との交流もあったことから、元々キリスト教に対する嫌悪感などはなかったのかもしれません。

玉に改宗を迫ったのも、キリシタンを追放したのも、細川家を守るための行動でしょうし、キリスト教を「嫌悪」したのも愛する玉がキリスト教を強く信仰することに対しての嫉妬ではないでしょうか。

忠興がガラシャの死後に追悼ミサを行わせていた事実を踏まえると、そう考えるのが自然でしょう。

参考文献:米原正義「細川幽斎・忠興のすべて」新人物往来社、2000年/上総英郎「細川ガラシャのすべて」新人物往来社、1994年/田畑泰子「細川ガラシャ -散りぬべき時知りてこそ-」ミネルヴァ書房、2010年
文:成重 敏夫