第35話 細川家の跡を継げなかった細川忠興の長男・細川忠隆

前回の「小倉城ものがたり」では、小倉藩初代藩主・細川忠興の妻である細川ガラシャを紹介しました。ふたりは三男二女をもうけましたが、忠興の跡を継いだのは長男ではなく三男の忠利でした。

なぜ長男が跡を継がなかったのでしょうか?

今回の「小倉城ものがたり」では、忠興とガラシャの長男・細川忠隆を紹介します。忠隆は父・忠興と同様に、妻に対する強い愛情を持つ人物だったようです。

細川忠興の長男・忠隆

細川忠隆は天正8年(1580年)生まれ。のちに小倉藩初代藩主となる細川忠興と明智光秀の三女・細川玉(洗礼名ガラシャ)夫妻の長男です。

17歳のとき、豊臣秀吉の命により、豊臣政権の五大老の一人として知られる前田利家の七女・千世と結婚します。

自害した忠興の妻・ガラシャ、逃げた忠隆の妻・千世

慶長5年(1600年)、忠隆の父・忠興は徳川家康に従って上杉征伐に出陣します。

屋敷を守る家臣に対して忠興は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従ってまず妻を殺し、全員切腹してわが妻とともに死ぬように」と命じました。

敵対する石田三成の軍勢は、忠興の不在時に大坂の細川屋敷を取り囲み、ガラシャらに人質となることを要求します。

しかし、夫の忠興と細川家を守るために、ガラシャは人質となることを拒み、家老・小笠原少斎に胸を長刀で突かせて絶命しました。

このとき、同じく細川屋敷に住んでいた忠隆の妻・千世も自害することを決意していたそうです。しかし宇喜多秀家の正室である実姉・豪姫に勧められ、自害せずに隣の宇喜多屋敷に逃げ込みました。

妻・千世をかばい廃嫡された忠隆

忠隆は戦にも強く、関ヶ原の戦いでも東軍に属して大活躍。徳川家康からも高く評価をされていました。

関ヶ原の戦い前後に、細川家の家老・松井興長宛に送った自筆状が残されていますが、それによると、忠隆は自他ともに世子と認められている様子でした。誰もが忠興の跡継ぎは忠隆であると考えていたのです。長男ですから当然のことでしょう。

しかし、忠隆は細川家の跡継ぎとなることはできませんでした。

関ヶ原の戦いのあと、忠興は忠隆に千世との離縁を命じます。自身の妻・ガラシャが自ら命を落としたにもかかわらず、忠隆の妻・千世が宇喜多屋敷に逃げ込んだことがその理由です。

離縁する考えのない忠隆は、父に背いて千世をかばいます。しかしこれは忠興の怒りを買ってしまう結果に。忠隆は忠興に勘当されてしまいます。そして慶長9年(1604年)、忠興は忠隆を廃嫡(相続権を廃すること)しました。

廃嫡後の忠隆と親子関係の変化

忠隆は廃嫡された後、剃髪して長岡休無と号し、千世と長男とともに京都に蟄居します。蟄居中の生活は忠隆の祖父・幽斎が支援したとのこと。

のちに忠隆は千世と離縁。千世は加賀国に帰り再嫁します。

しばらくして、忠興と忠隆の親子関係に変化が現れます。

寛永3年(1626年)、忠興が京都の休無邸を訪問。ここで休無は勘当を解かれます。しかし休無は忠興のいる豊前国には来ず、京都で暮らし続けました。

そして寛永9年(1632年)、忠興が肥後熊本藩に移ったときに、ふたりは正式に和解します。休無は忠興より、八代領6万石を与えるので熊本に住むように申し付けられますが、休無は固辞して京都に帰りました。

その後も京都に住み続けた忠隆は、正保3年(1646年)に死去。享年67でした。

さいごに

壮絶な最期を迎えた忠興の妻・ガラシャ。一方、細川屋敷から逃げ出した忠隆の妻・千世。忠興にとって、千世が取った行動は決して許せるものではなかったでしょう。

ここで忠隆が妻・千世をかばった結果、忠隆は廃嫡されてしまい細川家の跡を継ぐことはできませんでした。

妻を思う忠隆の行動が、「本能寺の変」の後にガラシャを守った忠興の行動と重なって見えるのは私だけでしょうか。

参考文献:上総英郎「細川ガラシャのすべて」新人物往来社、1994年/岩沢愿彦「前田利家」吉川弘文館、1966年
文:成重 敏夫

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