第39話 軍師にして築城の名手・黒田官兵衛と小倉城との縁

福岡藩の藩祖として知られる武将・黒田官兵衛。

平成26年(2014年)のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」も記憶に新しいところです。

官兵衛は福岡藩の人物という印象が強く、一見小倉藩にはあまり関係が無さそうですが、実は小倉城とただならぬ縁を持っているんです。

今回の「小倉城ものがたり」は“軍師”“築城の名手”などの異名を持つ黒田官兵衛を紹介します。

なお、この記事では本名・黒田孝高(よしたか)ではなく、一般的に多く使われている通称・官兵衛を使用します。

軍師・黒田官兵衛

大河ドラマのタイトルにもついているように、黒田官兵衛といえばやはり“軍師”のイメージが強いですよね。

“軍師”とは、軍の大将の下で作戦や計略を考えめぐらす参謀のことです。

官兵衛は豊臣秀吉に仕え、鳥取城を「兵糧攻め」で、そして高松城を「水攻め」で攻略。

また、明智光秀による本能寺の変の後、秀吉に毛利氏との和睦を進言。「中国大返し」を促したのも官兵衛の献策によるものといわれています。

その後も数々の戦で秀吉をサポートし、天下統一を支えます。

築城の名手・黒田官兵衛

官兵衛はまた、築城の名手としても知られていました。

居住した妻鹿城(めがじょう・現在の兵庫県姫路市)、中津城、福岡城を始め、姫路城や大坂城、名護屋城(現在の佐賀県唐津市)、広島城などの築城に携わっています。

官兵衛と小倉城との関係

ここからは、黒田官兵衛と小倉城との関係についてご紹介します。

実は、小倉城は官兵衛に二度攻め落とされているんです。

一度目は天正14年(1586年)のこと。

九州では大友氏に代わり、島津氏が力をつけてきていました。

大友氏から救援要請を受けた秀吉は、島津氏征伐のため毛利輝元、吉川元春、小早川隆景を豊前に出陣させ、軍奉行(軍事の総指揮者)として官兵衛を派遣します。

官兵衛と毛利軍は、当時香春岳城(香春町)の支城であった小倉城を攻略。小倉城城代・小幡玄蕃を自刃に追い込みます。

後に秀吉は九州を平定。秀吉は官兵衛に京都郡、仲津郡、築城郡、上毛郡、下毛郡、宇佐郡(一部)の6郡12万石を、残りの企救郡と田川郡の2郡6万石を毛利吉成(のちに勝信と改名)に与えます。

二度目の攻略は慶長5年(1600年)に行われた「関ヶ原の戦い」の後のことです。

このとき、既に黒田家は徳川家康を支持しており、官兵衛の子・長政は東軍の武将として関ヶ原の戦いに出陣しました。

一方、中津城を守っていた官兵衛は、蓄えておいた金銀を使って領内の武士や百姓を召し抱え、戦に備えていました。

同年9月、東軍の細川忠興が治めていた杵築城を西軍の大友義統が攻撃します。

杵築城の城将・松井康之と有吉立行は官兵衛に援軍を要請。官兵衛は9000余の兵を率いて出陣します。

この戦を含む「石垣原の戦い」において、東軍の黒田軍は西軍の大友軍に勝利を収めます。

戦後、官兵衛は北上。策略を用い、毛利勝信が治めていた小倉城を攻め落とします。

毛利勝信と子・勝永は肥後国(現在の熊本県)へ追放。小倉城には細川忠興が入り、豊前一国、豊後の二郡(国東郡、速見郡)の30万石が与えられました。最初は中津城に入城し、その後小倉城へ居城を移します。

ここで、黒田家と細川家との関係について触れておきましょう。

官兵衛は忠興の父・細川幽斎から歌学の指導を受けるほど、昵懇の間柄であったそうです。年齢は幽斎が12歳上。ある意味“師弟”関係ともいえるでしょう。

また、忠興が治める杵築城に援軍として向かうくらいですから、官兵衛と忠興との仲も悪くないはずです。

しかし、官兵衛の子・黒田長政と忠興とは仲が良くなかったといわれています。

このふたりは、関ヶ原の戦いで同じ東軍の武将として石田三成の本体と戦ったのですが、その後仲たがいする事件が起こりました。

前述の通り、忠興は関ヶ原の戦いの功績で豊前一国、豊後の二郡に入ります。それまで豊前国を治めていた長政は筑前国に移ることになりました。

その際、本来は豊前国に残しておくべき年貢を、長政が全て筑前国に持っていたとの話が残されています。

後に忠興が返還を求めたそうなのですが、長政はそれに応じず、最終的には徳川家康の家臣・榊原康政が仲介に入り解決に至ったそうです。

官兵衛の最期

関ヶ原の戦いの後、官兵衛は長政が得た筑前52万石の地に移ります。

一旦名島城(現・福岡市東区)に入りますが、筑前国の発展を考えて警固村福崎(現・福岡市中央区)に移転。この地に福岡城を築きます。

築城の際に、黒田家ゆかりの地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地名にちなみ福崎を「福岡」と改名。

福岡城は慶長12年(1607年)に完成しましたが、官兵衛はそれを見届けることなく慶長9年(1604年)に死去。享年59でした。

官兵衛ゆかりの地

官兵衛は京都郡や仲津郡(現在の行橋市など)を治めていたため、小倉から比較的近い位置に「官兵衛ゆかりの地」が存在します。

苅田町にある松山城は、官兵衛が二度目に小倉城を落とした後の戦の拠点として使われたそうです。

また、行橋市の馬ヶ岳城は官兵衛の居城としたことで知られています。

馬ヶ岳城跡は訪問することも可能ですので、ご興味のある方はぜひ訪れてみてください。

参考文献:諏訪勝則 「黒田官兵衛 『天下を狙った軍師』の実像」中公新書、2013年、福岡県観光情報ホームページ、苅田町ホームページ、行橋市ホームページ
文:成重 敏夫