第47話 江戸時代の小倉の名産品「三官飴」とは?

小倉の名産品といえば何を思い浮かべますか?

合馬たけのこやぬか炊き、お菓子もいくつか思い浮かびますよね。

実は、江戸時代にも小倉に名産品が存在しました。
その名も「三官飴(さんがんあめ)」。
全国的にかなり知られた飴だったようです。

三官飴とは

三官飴とは、江戸中期から幕末期にかけて、お土産品、贈答・進物品として多く使われた小倉の名産品です。

製法を直接記した文献は見つかっておりませんが、小倉産のもち米、そして麦芽が原料であるといわれています。

飴自体の伝世品(古くから伝わる品のこと)が現在まで知られていないため、三官飴の歴史や流通を考えるには、飴を入れていた外容器が参考になるそうです。

三官飴の外容器

三官飴の外容器(飴壺)としては、当初上野焼系の陶器が使われていました。

上野焼は、千利休から直接指導を受け、茶の湯に造詣の深かった初代小倉藩藩主・細川忠興やその子忠利が、茶器の最高峰に位置づけられる「遠州七窯」のひとつに押し上げた焼きものです。

その後、上野焼の系譜を引く「清水焼(きよみずやき)」と称された容器が使われるようになりました。

清水焼という名が表す通り、現在の小倉北区清水(きよみず)町、皿山町あたりで作られていたそうです。

当時小倉藩でどれほどの飴壺が作られたかははっきりとしていませんが、現在400点ほどが確認できており、小倉城周辺の発掘のたびにその数が増加しているそうです。

福岡県内では行橋、黒崎宿、木屋瀬宿、久留米城下で、県外でも中津城下、長崎、熊本城下など、主に九州で発掘されています。

一方、本州でも山口、広島(廿日市)、姫路、大坂、京都(平安京)、江戸(市ヶ谷)などで発見されており、山形県酒田市の亀ヶ崎城跡が最北です。

この飴壺は破損しにくく、焼き物としての付加価値もあるため、リサイクルされ別の用途に使われていたこともあるそうです。

火葬用の骨壺や、植木鉢に転用されたことが判明しています。

三官飴の生産者

外容器(飴壺)は現在の清水町、皿山町あたりで作られていましたが、飴は小倉城内で作られていたそうです。

東曲輪(紫川の東側・現在の京町や米町)に六軒、西曲輪(紫川の西側・小倉城を含む室町付近)に二軒と、城下には八軒の飴屋が存在したと残されています。

そのうち、長崎街道沿い(室町一丁目・常盤橋を渡ったところ)にある「三官屋宇兵衛」の飴が御用飴として、有力武家や公家、寺社への進物とされていました。

三官屋宇兵衛は飴壺の製造や販売上において、小倉藩から他の飴屋とは違う優遇を受けていたようです。

例えば、清水焼で焼かれた三官屋の壺以外は「雑器」であったという記録が残されており、三官屋の飴壺にだけ、特別の付加価値をつけているかのような表現になっていたそうです。

一方、他の飴屋の飴に「三官飴」「御用飴」といった表記は使われていなかったとのこと。

「三官飴」は三官屋宇兵衛が生産する飴に対してだけつけられていた、登録商標的な商品名であったと考えられています。

三官飴は「三韓飴」と表記されているものが存在することから、三韓=馬韓、辰韓、弁韓(朝鮮南部に分立した三つの部族国家のこと)より、朝鮮半島由来のものと考えられてい[a]ますが、「三官」を飴の製法を伝えた中国人の名前とするもの、細川氏の家臣の名前とするものなどの説もあります。

三官飴の“終わり”

名産品として名高い三官飴も、昭和18年頃から戦時下の米供出によりもち米が調達できなくなり、製造は困難になりました。

外容器は明治30年前後から陶製からガラス製に代わっており、飴壺の生産も徐々に少なくなったそうです。

17世紀後半に生まれ、江戸時代に最盛期を迎えた三官飴は、約200年でその歴史を閉じました。

さいごに

全国的に名が知れていた小倉の名産品「三官飴」、現代に全く何も残されていないので、どのような味や食感であるのか想像もできません。

お土産品、贈答・進物品として多く使われたとのことなのでさぞ美味しかったのでしょうね。

参考文献:江戸遺跡研究会「江戸時代の名産品と商標」吉川弘文館、2011年
文:成重 敏夫