第49話 島村志津摩の政敵だった?小倉藩士・小宮民部とは

前回の「小倉城ものがたり」で紹介した島村志津摩と同時期に小倉藩を支えた人物がいます。

名は小宮民部(こみやみんぶ)。

島村の「政敵」とも呼ばれた小宮民部とは、どのような人物なのでしょうか。

島村志津摩の政敵・小宮民部

幕末の小倉藩を先導したのは、ともに小倉藩の中老・島村志津摩と小宮民部です。

両者は小倉藩の運営を巡っては確執が多く、二人の不仲ぶりは近隣の諸国にまで知られるほどだったといっていいでしょう。まさに「政敵」という言葉がぴったりの両者です。

小宮民部は文政6年(1823年)に小倉藩士・秋山光芳の次男として生まれ、後に中老職小宮親泰の養子となります。

人となりを「沈着・智謀」と評される小宮は、特に小倉藩の財政経済に通じ、多くの功績を残しています。

小倉藩六代藩主の小笠原忠固(ただかた)にはじまり、七代忠徴(ただあきら)、八代忠嘉7(ただひろ)、九代忠幹(ただよし)、十代忠忱(ただのぶ)に仕え、常に要職を歴任しました。

当初は四郎左衛門と名乗っていましたが、元治元年(1864年)に長年の功により忠幹から民部の名を賜りました。

小宮家と島村家には、家柄に大きな違いがありました。

小宮家は小笠原氏の旧臣として、老職(家老や中老などの職)の中で最も格式の高い家柄でした。

一方島村家は、初代藩主の小笠原忠真が小倉に転封された後に新規に召し抱えられた家筋なので、小笠原家臣団の中では外様にあたります。

小宮民部、島村志津摩とも同じ中老職ではありましたが、両者の家の格式にはかなりの開きがありました。

しかし、先に家老職に就任したのは島村でした。小宮は島村に遅れること一年、嘉永6年(1853年)に家老職となります。

小笠原譜代名門の誇りと財政経済への強みが、島村志津摩に対してのライバル意識として表れたといわれています。

この両者の関係は、以降の小倉藩の運営に大きな影響を与えました。

小倉城自焼

これまで、この「小倉城ものがたり」で何度か小宮民部の名前が出てきました。

小倉城の歴史に詳しい方は「小宮民部=小倉城に火を放った人物」という印象を強くお持ちかもしれません。

この「小倉城自焼」についておさらいしておきましょう。

慶応2年(1866年)の、いわゆる「小倉戦争」で不利な戦況にあった小倉藩は、味方であるはずの熊本藩の無断帰国や、総督を務めていた小笠原長行が姿を消したことで、完全に窮地に立たされてしまいます。

小倉藩は軍議により「力の限り防戦した上で小倉城を開城する」という方針を一旦固めたものの、その後小宮が独断に近い形で方針を変更。長州藩軍が押し寄せてくる前に小倉城を自焼することを決意します。

その後、小倉藩は田川郡香春まで撤退を余儀なくされました。

小倉戦争が終わった慶応3年(1867年)、小宮は小倉藩に隠居謹慎を命じられます。しかし翌年4月に藩主一行が肥後から帰国すると、謹慎が解かれます。

その後、驚くことに明治2年(1869年)に小倉藩は小宮に切腹を命じます。

小宮に切腹を命じた理由ははっきりしていませんが、藩士が香春に移った後の生活が苦しく、小倉城自焼の責任を追及する声を藩が抑えきれなかったからとも、長州藩と講和が成立した後の小宮の動きが小倉藩の考えと相容れなかったからともいわれています。

同年11月29日、小宮は仲津郡木井馬場村で自刃。その生涯を閉じます。享年47。

さいごに

島村志津摩の政敵と呼ばれていた小宮民部ですが、考えは違えども「小倉藩を支える」という根底は両者とも一致していたようです。

それだけに、藩に切腹を命じられたことは無念だったのではないでしょうか。

功績の目立つ島村志津摩だけが目立ちがちですが、同時期に小倉藩を支えた小宮民部という人物も、覚えておきたいところです。

参考文献:小野剛史 「小倉藩の逆襲」花乱社、2019年/白石 壽「小倉藩家老 島村志津摩」海鳥社、2001年
文:成重 敏夫

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