第51話 森鴎外が“小倉へ西洋から輸入せられている二つの風俗”と呼んだ「広告塔」と「伝便」とは

小倉城近くの常盤橋(ときわばし)の京町側に建っている白いモニュメント「広告塔」。かつて小倉で過ごした文豪・森鴎外の小説でも紹介されました。

今回の「小倉城ものがたり」は、森鴎外の小説で“小倉へ西洋から輸入せられている二つの風俗”と紹介されている「広告塔」と、同時期に使われていたサービス「伝便(でんびん)」を紹介します。

白いモニュメント「広告塔」

小倉藩初代藩主・細川忠興が城下町を建設する際に架けられた常盤橋は、長崎街道の起点であるため、参勤交代の大名をはじめ多くの人に利用されていました。

享保14年(1729年)に、第8代将軍・徳川吉宗に献上する白い象が渡った話もよく知られています。

この常盤橋の京町側のたもとにあるのが「広告塔」と呼ばれるモニュメントです。

明治23年(1890年)頃に建てられたとされ、高さは12.5メートル、総幅は4.2メートルだったそうです。

19世紀末~20世紀初頭に小倉で過ごした作家・森鴎外は、小説「独身」でこのように書いています。

“常磐橋の袂に円い柱が立っている。これに広告を貼り附けるのである。赤や青や黄な紙に、大きい文字だの、あらい筆使いの画だのを書いて、新らしく開けた店の広告、それから芝居見せものなどの興行の広告をするのである。勿論柱はただ一本だけであって、これに張るのと、大門町の石垣に張る位より外ほかに、広告の必要はない土地なのだから、印刷したものより書いたものの方が多い。”

広告塔にはさまざまな色の宣伝ポスターが貼られていたこと、当時の小倉には広告を貼る場所が少ないため、ポスターは印刷したものより手書きのものが多かったことが分かります。

現在の広告塔は、平成15年(2003年)に再建されたもので、大きさも当時の約3分の1となっています。

小倉にあった独自のサービス「伝便」

鴎外が、小説「独身」の中で広告塔とともに紹介しているのが「伝便(でんびん)」。

郵便より早く手紙などを届けてくれる走使(はしりづかい)のことです。

「独身」には、

“東京に輸入せられないうちに、小倉へ西洋から輸入せられている二つの風俗の一つ“

と書かれており、広告塔も伝便も、東京より先に小倉に輸入されていることが分かります。

鴎外が小倉で過ごした明治時代には、既に国内の郵便制度は整っていましたが、近場への手紙の配達は伝便を使った方が早かったといわれています。

“会社の徽章の附いた帽を被って、辻々に立っていて、手紙を市内へ届けることでも、途中で買って邪魔になるものを自宅へ持って帰らせる事でも、何でも受け合う“

とも紹介されているので、手紙だけでなく荷物も配達していたようです。

さいごに

森鴎外が、広告塔と伝便を

“東京に輸入せられないうちに、小倉へ西洋から輸入せられている二つの風俗の一つ“

と紹介していることから、当時の小倉は文化的、風俗的にかなり発達していたことがよく分かります。

広告塔は“小倉の五街道”の起点であった常盤橋そばにあったことで多くの人の目に触れたでしょうし、便利な伝便は、小倉の人々が大いに活用したのではないでしょうか。

出典:森鴎外「独身」
文:成重 敏夫

Scroll Up