第53話 初代小倉藩藩主・細川忠興の茶の師匠「千利休」

茶人として有名な千利休(せんのりきゅう)。歴史ドラマに出てくることも多く、名前を知っているという方も多いのではないでしょうか。

実はこの千利休、小倉藩にも大いに関係がある人物なんです。今回の「小倉城ものがたり」は茶人・千利休を紹介します。

千利休とは

「わび茶」を完成させた人物として知られる千利休は、大永2年(1522年)に和泉国・堺(現在の大阪府堺市)で生まれます。

初めて茶の湯に触れたのが17歳のとき。その後は茶人として経験を積みつつ、商人としても財を成します。

永禄12年(1569年)以降、堺は織田信長の傘下となるのですが、その際に利休は信長に召し抱えられ、関係を深めていきます。

天正10年(1582年)6月に起こった本能寺の変で信長が討ち取られた後、利休は豊臣秀吉に仕えるようになりました。

翌年3月には、現存する利休作の唯一の茶室である待庵(たいあん)が完成。その後も茶室や茶道具の制作に関わります。

「利休」の名を勅賜されたのは、天正13年(1585年)10月のことでした。秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕した際に「利休居士」という号を与えられます。

茶人として名声と権威を誇った利休は、秀吉の政治にも大きく関与していきました。

利休七哲

千利休は、初代小倉藩藩主の細川忠興との関係が深いことが知られています。

忠興は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の有力者に仕え、戦において数々の実績を誇ります。

特に、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐、そして慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでの成果が知られています。

一方、「戦国時代随一の教養の持ち主」と評された忠興の父・細川藤孝(のちの細川幽斎)同様に文化人としての顔を持ち、茶人・細川三斎(ほそかわ さんさい)としても知られています。

20歳前後から千利休に師事するなど茶の湯にも造詣が深く、千利休高弟7人の武将を指す「利休七哲」の一人に数えられています。

天正19年(1591年)に利休が切腹を命じられたときに、利休にゆかりのある諸大名の中で見舞いに行ったのは、忠興と、同じく「利休七哲」に数えられていた古田織部だけであったことからも、忠興と利休の縁の深さが分かります。

利休と忠興の年齢差は41歳。利休の書状からは、利休が武将としての忠興に敬意を示していることが読み取れ、ときに忠興の反発もあったものの、良好な師弟関係を築いていたようです。

千利休の晩年

千利休は天下人・豊臣秀吉の側近として、多くの大名に対して影響力を持っていました。

しかし、そのうちに秀吉との関係に不和が生じ、天正19年(1591年)に切腹へと追い込まれます。理由は諸説ありますが、はっきりとは分かっていません。

というのが通説ですが、一方で利休は切腹しておらずに細川三斎によって九州にかくまわれていたという説もあります。

文禄元年(1593年)に書かれた秀吉の自筆書状に利休が名護屋城(現在の佐賀県唐津市)で秀吉のそばにいたことを示すものが二通存在していることというのがその理由です。

さいごに

初代小倉藩藩主の細川忠興、そしてその父・藤孝との関係も深い千利休。

もしかしたら、忠興が行った小倉の町づくりに、利休の考えが反映されているところがあるかもしれませんね。

参考文献:江戸遺跡研究会「石原宗祐 僧清虚 岩松助左衛門(ふくおか人物誌)2」西日本新聞社、1994年、加藤 秀俊ほか「人づくり風土記 40:全国の伝承江戸時代 ふるさとの人と知恵 福岡」農山漁村文化協会、1988年
文:成重 敏夫