第54話 信仰と愛に生きた小倉藩家老・加賀山隼人
かつて小倉の町はキリスト教が盛んでした。
小倉藩初代藩主の細川忠興も、妻・ガラシャが熱心なキリシタンだったこともあり、キリスト教を保護する側の立場でした。
忠興が治める時代、小倉には2,000人ものキリシタンがいたといわれています。
今回の「小倉城ものがたり」では、そのキリシタンのひとりである小倉藩の家老・加賀山隼人を紹介いたします。
加賀山隼人とは
加賀山隼人は永禄9年(1566年)、キリシタン大名・高山右近の居城であった高槻城(摂州国)に生まれます。
10歳のときに、戦国時代の日本で宣教したイエズス会のルイス・フロイス神父から洗礼を受け、洗礼名「ディエゴ」を授かります。
その後、加賀山は高山右近に仕えますが、天正15年(1587年)に右近が領地を没収されると、丹後国の宮津城主・細川忠興の家臣となります。
忠興は慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦の功績により、豊前小倉に移封。隼人も忠興とともに小倉に入りました。
キリスト教禁止令により迫害を受けた加賀山隼人
忠興は、妻・ガラシャの死後も、毎年命日にミサを開くなど、キリシタンに寛容な立場でした。当時、小倉にはキリスト教の信者が約2,000人、宣教師が10人と、国内でも有数のキリスト教が盛んな町でした。
しかし慶長16年(1611年)にガラシャをキリスト教に導いたグレゴリオ・デ・セスペデス神父が亡くなると、忠興は他の宣教師も追放します。
そして慶長18年(1613年)に幕府からキリシタン禁止令が出されると、領内のキリシタンの追放を開始。
忠興は信頼の厚い隼人に対しても、再三棄教を迫りました。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では忠興に従って出陣した隼人でしたが、棄教には応じずについには家老職を解かれてしまいます。
数年間、家族ともども軟禁生活を強いられますが、隼人の気持ちが変わることはありませんでした。
元和5年(1619年)10月15日、棄教を拒んだ隼人に対しに忠興は死罪を宣告します。
隼人は同日、干上がり(現在の小倉北区日明)で斬首の刑に処されます。このとき54歳でした。
時を同じくして、同じ理由で隼人のいとこである加賀山半左衛門とその息子も、豊後の日出で殉教を遂げました。
隼人は、死ぬ直前まで冷静な態度と祈りの精神を守り通したといわれています。
隼人の処刑から400年経った令和元年(2019年)10月14日には、香春口にあるカトリック小倉教会で記念ミサが開かれました。この地には「豊前国ディエゴ加賀山隼人殉教之地」が建てられています。
さいごに
小倉藩の家老・加賀山隼人は、信仰と愛に生きたことから、ローマ法王庁(バチカン)から栄誉ある「福者」として列されるほどの人物です。
当初はキリスト教に寛容であった忠興が、細川家を守るためにキリスト教を弾圧したことで棄教を迫られ、殉教を遂げることとなった加賀山隼人はさぞ無念だったことでしょう。
文:成重 敏夫