第55話 小倉藩きっての槍の達人・高田吉次

日本史上最も有名な剣豪といえば、“二刀流”で知られる宮本武蔵ではないでしょうか。

各地を転々とした武蔵ですが、小倉には7年間と生涯で最も長く滞在していました。

そのため、小倉藩には武蔵と縁の深い人物が多数います。

そのひとりが、槍術(そうじゅつ)家・高田吉次(たかだよしつぐ)。

小笠原忠真に仕えて明石藩から小倉藩にやってきた吉次は、「槍の又兵衛」とも呼ばれ国内でも有数の槍の達人といわれていました。

今回の「小倉城ものがたり」は、槍の達人・高田吉次を紹介します。

高田吉次と宮本武蔵の「御前試合」

高田吉次は、小倉藩の槍術の主流であった宝蔵院流高田流槍術の始祖。槍の達人として名高く、通称の「高田又兵衛」から「槍の又兵衛」として名が知られていました。

吉次は元和9年(1623年)、34歳のときに明石藩主・小笠原忠真に仕官。藩の武術指南にあたりました。

その後、寛永9年(1632年)に忠真が小倉藩へ移った際、忠真に従って吉次も小倉藩に入ります。

当時、忠真の客分として宮本武蔵が小倉藩に迎えられており、吉次は武蔵と「御前試合」をした記録が残されています。

このとき、吉次は竹製の十文字槍、武蔵は木刀を手に立ち合ったとされています。

この「御前試合」、内容も結果もさまざまな説が残されています。

両者が互角に立ち合っていたとするものや、本気で戦っていないとするもの、試合結果も吉次の勝ちとしたもの、吉次が降参したものなどがあります。

武蔵は明石藩で町割と呼ばれる都市計画を行ったこともあり、武蔵と吉次は以前からの知り合いだったそうです。試合後に互いの力を認め合った両者は、それ以降生涯の友になったといわれています。

その後、吉次は寛永15年(1638年)に起きた島原の乱でも大活躍。

藩主の忠真、武蔵の子・伊織などと戦に参加し、槍手一隊を率いて本丸を陥れ、幕府軍より褒章を受け取ったとされています。

高田吉次とは

吉次は1590年(天正18年)に伊賀国(現在の三重県伊賀市)に生まれました。

12歳のとき、「宝蔵院流槍術」の中村尚政の門弟となって槍術を学びます。

その後、宝蔵院流槍術の開祖・宝蔵院胤栄から直々に十文字槍術の指導を受けるなど腕を磨き、宝蔵院流高田派槍術を完成させたといわれています。

吉次は、慶長19年(1614年)の大阪冬の陣、そして翌年の大阪夏の陣に豊臣方として参加します。

豊臣方は敗れ大坂城は落城しましたが、吉次は大坂城を脱出。浪人となり、江戸で道場を開いたとされています。

徳川家光にも認められた槍術家・高田吉次

槍術家として有名な高田吉次にはこのようなエピソードもあります。

慶安4年(1651年)に三代将軍・徳川家光が病に倒れます。

病気平癒祈願として、武芸好きな家光のために武芸の達人が全国から江戸城に集められ、「慶安御前試合」が開催されました。

ここに参加した吉次は、長男の高田吉深と弟子・觀興寺正吉とともに江戸城で「宝蔵院流高田派槍術」の妙技を披露したそうです。

家光は吉次の槍術を高く評価。「槍の又兵衛」の名声が全国に知られるようになりました。

高田吉次の墓

吉次は寛文11年(1671年)1月23日に死去。82歳でした。

当初は小倉の峰高寺に葬られましたが、移転により現在は小倉北区京町4丁目の生往寺(しょうおうじ)に吉次の墓があります。

文:成重 敏夫