第57話  天守閣再建ものがたり

皆さんは、現在建っている小倉城の天守閣がいつ頃建てられたものかご存知でしょうか。

小倉城の天守閣は一度焼失しており、約120年に渡って天守閣のない状態が続いていましたが、昭和34年(1959年)に再建されました。

今回の「小倉城ものがたり」は、小倉城天守閣の再建にまつわる話を紹介します。

再建までの小倉城天守閣

小倉城の歴史は、永禄12年(1569年)に中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まります。その後、高橋鑑種(あきたね)や毛利勝信が居城。

その後、関ヶ原の戦いの論功行賞で入国した細川忠興(ただおき)が、小倉城へと入城します。慶長7年(1602年)から約7年をかけて築城。このときに天守閣が建てられました。

そして寛永9年(1632年)に譜代大名の小笠原忠真(ただざね)が入城。以降は幕末まで小笠原氏の居城となります。

天保8年(1837年)、小倉城の天守閣は台所付近を火元とする火災で本丸御殿とともに焼失します。

このとき、小笠原小倉藩の第6代藩主・小笠原忠固(ただかた)が小倉藩を治めていましたが、当時の小倉藩は、忠固自身が引き起こした騒動により極度の財政難に陥っていました。

そのため、本丸御殿は2年後に再建したものの、天守閣の再建は資金不足により見送られました。

小倉城天守閣の再建

太平洋戦争後から復興を遂げ、さらに高度成長期にさしかかった昭和30年代後半から40年代にかけ、全国的に天守閣の再建ブームがやってきました。

小倉城も例に漏れず昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートにて再建されました。

これは、昭和35年(1960年)に小倉市制施行60年を記念して行われた「伸びゆく北九州 小倉大博覧会」の開催に合わせたものです。

初代小倉藩藩主の細川忠興が建てた天守閣は、4重5階の層塔型天守(一階から最上階まで四角い箱を順番に積み上げていくような形)です。最上階を除き、破風と呼ばれる装飾のない簡素な外観が特徴でした。

再建の際には、当時は存在しなかった千鳥破風(屋根の斜面に設けた小さな三角形の破風)や唐破風(頭部に丸みをつけて造形した破風)などの破風が付けられました。

このように、当時の外観を正確に復元はしていないものの、以前と同じ場所に建てられた天守のことを「復興天守」と呼びます。

ちなみに、江戸時代より残っている天守を「現存天守」(全国に十二城存在、すべて国宝または国指定重要文化財)、外観をそのまま再現した天守を「復元天守」(全国に十四城存在)と呼びます。

再建された小倉城天守閣は、小倉市(当時)の象徴に位置づけられました。

天守閣内部は郷土資料館として利用されましたが、昭和50年(1975年)に北九州市立歴史博物館が開館すると、郷土資料館から民芸資料館に移行しました。(民芸資料館は平成2年(1990年)に廃止)

また、城内にはジェットコースターが設置され、昭和45年(1970年)まで営業を行いました。

平成10年(1998年)には、8月4日に北九州市立松本清張記念館が、9月20日に細川氏時代の家老松井家屋敷跡、小笠原氏時代の御下屋敷跡に小倉城庭園が開館し、現在の小倉城に近い形となりました。

さいごに

昭和34年(1959年)に再建されて以来、北九州市のシンボルとしてそびえたつ小倉城天守閣。

天守閣再建60周年を迎えた平成31年(2019年)にリニューアルオープン。展示内容と内装を約30年ぶりに一新しました。

参考文献:北九州市立自然史歴史博物館「小倉城と城下町」海鳥社、2020年

文:成重 敏夫