第58話 八坂神社の歴史と成り立ち

小倉藩初代藩主・細川忠興(ただおき)は、小倉の町にさまざまなものを残しています。

主なものとして、「唐造り」の小倉城や、京都の町を手本にし碁盤の目状になっている小倉の城下町、小倉の夏の風物詩「小倉祇園太鼓」、そして今回紹介する八坂神社が挙げられます。

今回の「小倉城ものがたり」では八坂神社の歴史と成り立ちを紹介します。

八坂神社の歴史

八坂神社は9世紀より祀られていたとされ、元和3年(1617年)に小倉藩初代藩主・細川忠興が小倉城近くに移しました。

元和2年(1616年)の秋、忠興が小倉城の西側にある愛宕山(現小倉北区菜園場)へ鷹狩に出た際に、山の頂上に小さな石の祠(ほこら)があることに気づきました。

忠興が中のご神体(しんたい・まつられている神様)を見るために扉をこじ開けようとしたとき、中から飛び出した一羽の鷹が忠興の目を蹴り、忠興は失明同然となりました。(祠から飛び出した蜂が忠興を刺したとの説もあります)

気性が激しいことで知られる忠興も、この出来事には深く反省。神様に礼を失した罰だと考え、祠を立派な神社に建て替えました。その後間もなく、忠興の目が見えるようになったといわれています。

この出来事の後、忠興は家臣に命じて祠の由緒を調べさせたところ、忠興の生国である京都の祇園社と同じ御祭神・須佐之男命(スサノオ)を祀っていることが分かりました。

そこで改めて、城下の土地(現小倉北区鋳物師町)に神殿を造営したのです。

忠興は、南殿には愛宕山の祇園社を遷宮、そして三本松(現旦過市場周辺)の祇園社を北殿とし、一つの大きな神社を造りました。本殿は一つに見えますが、中には二つの祇園様が祀られています。二つの祇園様を一緒に祀っている神社は全国的にもさほど多くなく、珍しいものとされています。

もともと「祇園社」と呼ばれていましたが、明治元年(1868年)に明治政府が発した神仏分離令(神社から仏教的な要素を排除する政策)により、名称が「八坂神社」に改められました。

現在の地に八坂神社が置かれたのは、昭和9年(1934年)のことです。

小倉祇園太鼓の歴史

八坂神社の話に欠かせないのが「小倉祇園太鼓」。

小倉の町の夏の風物詩として知られる「小倉祇園太鼓」は、細川忠興が「京の文化」のひとつとして取り入れたものです。

当時、忠興が目指したのは、小倉に自らが生まれ育った京都のような町を作ること。

小倉の繁華街が碁盤の目状になっているのは、京都の町を手本に作られたことが理由です。

また、京町、大阪町(現在の鍛冶町の一部)、室町など京都や大阪の地名、町名が見られるのも忠興の好みによるものです。

現在の祇園祭の始まりは、忠興が八坂神社を創建した翌年の元和4年(1618年)からおこなわれた「祇園会(ぎおんえ)」といわれています。

当初、楽器は鉦(かね)と鼓(つづみ)、笛が使われていましたが、万治3年(1660年)に太鼓が加わります。
現在と同様の山車に据え付けた太鼓を叩くスタイルとなったのは、明治時代末期のことです。

平成31年(2019年)に400周年を迎えた「小倉祇園太鼓」は、文化庁により国の重要無形民俗文化財に指定されました。

さいごに

初詣や祇園祭、七五三などで、一度は八坂神社を訪れたことがあるのではないでしょうか。

長きにわたり地域を守ってくれる八坂神社の歴史を、少しでも意識していただけると幸いです。

参考文献:北九州市ホームページ

文:成重 敏夫