第40話 小倉城の“門”紹介(1)大手門・大手先門・槻門・鉄門
小倉城には、かつて大小合わせて48の門があったといわれています。
やぐらの下に設けられた櫓門(やぐらもん)、小さな屋根が特徴的な高麗門(こうらいもん)など多様な構造の門が、外堀や城内、石垣の中などに設置されていたそうです。
現在、小倉城内にある門の跡の数は8つ。それらを今回と次回の二回に分けて紹介いたします。今回紹介するのは、大手門、大手先門、槻門、そして鉄門です。
小倉城の大手門(おおてもん)・大手先門(おおてさきもん)
城の正門にあたる門を、大手門と呼びます。「大手」とは城の正面、あるいは敵の正面を攻撃する軍勢という意味です。つまり、大手門=城の正門にあたります。
皆さんが小倉城の天守閣に向かう際に最初に通る、大きな石が特徴的な門がありますよね?あの門が小倉城の大手門です。
細川忠興の時代は、松本清張記念館そばにある西ノ口門が大手門でしたが、小笠原の時代になって、現在の場所に変えられました。
現在の北九州市役所と小倉城庭園の間あたりにあった大手先門をくぐり、その後に大手門から入城していたそうです。
小倉城の大手門の特徴として「内枡形」であることが挙げられます。内枡形とは、枡形と呼ばれる四角形の空間が、本丸などの内部に置かれている形状のこと。防御力が高いことが特徴です。
現在、全国の城下町にある「大手町」という地名の多くは、大手門の前にあることが由来です。東京の「大手町」は江戸城大手門(現在の皇居)の前に、香川県丸亀市の「大手町」は丸亀城の大手一の門、二の門の前に位置しています。
小倉では、小倉北区のソレイユホール周辺に「大手町」という地名がついています。
正面にある大手門に対し、背面の門は搦手門(からめてもん)と呼びます。小倉城の搦手門は当時、本丸の南西にありました。
小倉城の槻門(けやきもん)
この槻門は、藩主、家老、菩提寺の住職、そして英彦山の座主(ざす)のみが通行を許可されていた格式の高い門です。
形状は櫓門で、門の上は渡り廊下になっていました。槻門の柱の礎石は今でも瓦敷の路面上に残っています。
また、石垣の一部には慶応2年(1866年)の「小倉戦争(小倉口の戦い)」にて小倉城が自焼した際に受けた加熱の形跡が残されています。
小倉城の鉄門(くろがねもん)
鉄門は当時、槻門を通っていた藩主及び家老などを除く、武士などの登城口として使用されていました。
向かって右側の石垣と階段は、後に復元されたものですが、左側の石垣と階段は往時のものがそのまま残っています。
左側の石垣は、槻門と同様に「小倉戦争」の際に火熱を受けて赤く変化しています。
槻門と鉄門の間の石垣に「卍」が刻まれた石があります。
これは、小倉城築城の際、このあたりの石垣を請け負った家臣の家紋だそうです。
さいごに
今回は小倉城の門のうち、大手門、大手先門、槻門、鉄門を紹介しました。
現在、門のそばには「●●門跡」と刻まれた石碑が建てられているので、名前もすぐに分かると思います。それぞれの門の役割を覚えておくと、訪問したときに楽しめるかもしれませんね。
次回の「小倉城ものがたり」では、残る4つの「多聞口門」「西ノ口門」「虎ノ門」「北口門」を紹介します。
参考文献:北九州市立自然史歴史博物館「小倉城と城下町」海鳥社、2020年/北九州市ホームページ
文:成重 敏夫