第32話 細川ガラシャから夫・忠興への「思い」とは
前回の小倉城ものがたりに引き続き、小倉藩初代藩主・細川忠興と明智光秀の三女・ガラシャの婚姻について、それぞれの立場から相手に対する思いを掘り下げていきたいと思います。
今回は、細川ガラシャ(明智玉)から細川忠興への思いを紹介いたします。
明智玉(細川ガラシャ)とは
明智玉は、明智光秀の三女として永禄6年(1563年)に越前国(現在の福井県)で生まれます。
明智光秀は、いわずと知れた「本能寺の変」で織田信長を相手に謀反を起こした武将。この事件により、玉は激動の人生を送ることになります。
戦国時代に生まれた女性の運命とはいえ、玉の人生は「壮絶」の二文字に凝縮されています。
明智玉、細川忠興と婚姻
天正6年(1578年)、玉が15歳のときに後の小倉藩初代藩主・細川忠興と結婚します。
玉の父・明智光秀と忠興の父・細川藤孝は「盟友」と呼ばれる間柄でしたが、織田信長の肝入りによるこの結婚により、明智家と細川家はさらに深い間柄となりました。
戦国一の美貌を持つともいわれた玉は、時に強すぎる忠興の愛情に守られ結婚生活をスタート。天正7年(1579年)には長女を、天正8年(1580年)には長男・忠隆を出産します。
しかし、天正10年(1582年)に本能寺の変が発生。父・光秀が信長に謀反を起こします。“謀反人”光秀の娘である玉は、忠興との離縁を余儀なくされ、丹後国の味土野(みどの)に幽閉されます。
ここで玉に付き添っていたのが、清原いとという侍女。いとは子どものころからキリスト教の教えに親しんでおり、その後の玉の生き方を大きく変える存在となります。
夫・忠興の尽力もあり、玉は天正12年(1584年)に大坂の細川屋敷に戻ります。
この頃から玉はキリスト教に傾倒。外出もままならぬ立場ではありましたが、屋敷を抜け出して行った教会で出会ったグレゴリオ・デ・セスペデス神父に対し、玉はその場での洗礼を願い出ます。
しかしこの年・天正15年(1587年)は秀吉がバテレン追放令を出した年。教会としては秀吉の機嫌を損ねることだけは避けなければならず、セスペデス神父は玉の受洗を認めませんでした。
しかし玉の意志が固いことから、後に神父は既に洗礼を受けていた清原いと(清原マリア)を派遣。玉は無事洗礼を受けることができました。
入信した玉に対して忠興は激怒し、改宗を迫ったといいます。ここでの忠興の一連の行動などが原因でガラシャは離婚を考えたとのこと。しかしキリスト教の教えにより、離婚を思いとどまったとされています。
その後、慶長5年(1600年)に夫・忠興が徳川家康に従って上杉征伐に出陣します。このとき、敵対する石田三成の軍勢に大坂の細川屋敷を取り囲まれ、ガラシャらは人質となることを要求されます。
しかし、夫・忠興と細川家を守るために、ガラシャは人質となることを拒み死を選択。
キリシタンであり自害が許されないガラシャは、家老・小笠原少斎に胸を長刀で突かせて絶命します。このとき、ガラシャは38歳でした。
このガラシャの死は「義死」と評価されています。「義死」とは、文字通り正義のために死ぬこと。細川家に対する「義」がガラシャに死を決意させたのだとされています。
戦の相手である三成も、ガラシャの死が「義死」であることを認めていたようで、その後は諸大名の内室を人質に取ることを取りやめたそうです。
関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍の勝利に終わりましたが、このガラシャの行動が戦の行方を変えたとの評価もあります。
ガラシャの死の翌年の慶長6年(1601年)、忠興の依頼によりオルガンティノ神父がガラシャの葬儀を行います。
また、ガラシャをキリスト教に導いたセスペデス神父は、忠興により小倉藩に招かれ、慶長16年(1611年)までガラシャの追悼ミサを行ったといいます。
ガラシャの忠興への思い
忠興からガラシャに対する愛情は非常に深いものがあったといわれています。では、ガラシャから忠興への愛情はどのようなものであったのでしょうか。
最終的に自害を選んだ経緯を考えると、ガラシャは忠興に対する愛情もさることながら、細川家への「義」が強かったのではないかと考えられます。死を選んだのも忠興、そして細川家を思ってのこと。
ただ、キリスト教への思いが、忠興に対しての思いより遥かに強かったのではないでしょうか。
戦国の世に翻弄された細川ガラシャ。そのガラシャを救ったのは、まぎれもなくキリスト教なのでしょう。
参考文献:米原正義「細川幽斎・忠興のすべて」新人物往来社、2000年/上総英郎「細川ガラシャのすべて」新人物往来社、1994年/田畑泰子「細川ガラシャ -散りぬべき時知りてこそ-」ミネルヴァ書房、2010年
文:成重 敏夫