第33話 細川家を支え続けた松井康之・興長父子

慶長5年(1600年)から寛永9年(1632年)まで32年もの間、小倉藩を治めてきた細川家。

この細川家の家老として小倉藩初代藩主・細川忠興らを支えたのが、松井康之・興長(おきなが)父子です。松井家が大きく貢献したことにより細川家が繁栄した、との声も聞かれます。

今回の「小倉城ものがたり」は細川家を支え続けた松井康之・興長父子を紹介します。

父・松井康之

父・松井康之は天文19年(1550年)、京都郊外の松井城にて誕生。はじめは第13代将軍・足利義輝に仕えていましたが、後に細川藤孝に召し抱えられます。

天正10年(1582年)の本能寺の変の後に藤孝が出家すると、その後は子の忠興に仕えるようになりました。

忠興の危機を救った康之

松井康之は、忠興の大きな危機を二度救ったといわれています。

一度目は、忠興が豊臣秀吉から関白・豊臣秀次の謀反において連座の疑いを受けたときのこと。忠興は娘を秀次の家老・前野景定に嫁がせていたことと、秀次に借金があったことにより、秀次との関係を秀吉に疑われたのです。

そこで忠興を助けるべく奔走したのが康之。忠興の娘を離縁させ、秀次への借金も徳川家康に借りて返済することで難を逃れました。

忠興はこのことに深く感謝し、娘の古保(こほ)を康之の次男・興長の妻としました。

その後、関ヶ原の戦いの直前にも康之は忠興を救います。忠興は家康から謀反の疑いをかけられましたが、康之が家康に郷土料理を献上することで忠興を救い出したとされています。

関ヶ原の戦いの戦功により忠興は小倉藩の藩主に。そして康之は、忠興より豊後木付城(現大分県杵築市)2万5千石あまりを与えられ、九州の地に移り住むこととなりました。

その後、康之も小倉に移動。屋敷は現在小倉城庭園がある場所に建てられました。この屋敷には後年、宮本武蔵も立ち寄るなど、小倉藩に関連する人物が数多く訪れているようです。

茶人としても知られる康之

康之は忠興同様、茶人としても知られる存在でした。

忠興は「利休七哲」の一人に数えられるほどの優秀な弟子でしたが、康之もまた、利休の高弟といわれています。

利休が切腹する2週間前に康之に宛てた手紙を送っていることも、両者の関係を物語っています。この手紙は松井家と縁の深い熊本県の県指定重要文化財として残されています。

そして康之は慶長16年(1611年)に隠居。翌慶長17年(1612年)に小倉で死去します。享年63でした。康之の長男・興之は既に戦死していたため、家督は次男の興長が継ぎました。

子・松井興長

松井康之の次男・松井興長は天正10年(1582年)に丹後国久美浜にて誕生しました。

慶長16年(1611年)に父・康之の隠居に伴い家督を相続。忠興に仕えるようになります。元和6年(1620年)に忠興が隠居した後は、子の忠利に仕えました。

興長に男子がいなかったことにより、元和7年(1621年)に忠興の六男・寄之(よりゆき)を養子に迎えます。

寛永9年(1632年)に細川氏は肥後熊本藩に国替となります。このとき、興長には玉名・合志郡で3万石が与えられました。

そして寛永14年(1637年)には島原の乱に出陣。このときの出来事が、ある剣術家の運命を変えたとも言われています。

宮本武蔵とのつながり

興長は、小倉藩との縁の深い剣術家・宮本武蔵との関係が深いことでも知られています。

宮本武蔵といえば、まず思い浮かぶのが「巌流島の戦い」。

この戦いのきっかけは諸説ありますが、武蔵の伝記「武公伝」「二天記」によると、小倉藩藩主の忠興が、剣術に卓越した技能を持つ佐々木小次郎を高く評価したことを武蔵が耳にし、忠興と興長に小次郎との決闘を申し出たとされています。

ここで、興長は「巌流島の戦い」の後見人を務めたともいわれています。

寛永14年(1637年)に起こった島原の乱には興長と同様に武蔵も出陣していました。その陣中で興長が武蔵に使者を送ったとされており、戦後に武蔵は御礼の書状を興長に送ります。

寛永17年(1640年)に武蔵は忠興を訪問。自らの身の振り方を相談したようです。武蔵が熊本藩藩主・忠利の客分として熊本藩に招かれたのはこの後のことでした。

その後、興長の子・寄之(よりゆき)から武蔵の子・宮本伊織へ書状が送られるなど、武蔵と熊本藩の縁はさらに深いものとなりました。

興長は寛文元年(1661年)に死去。享年80でした。

長い間細川家の筆頭家老として仕えてきた松井家は、一方で幕府直参の身分を持つという特殊な家でした。また、一国一城制の例外として八代城主を明治維新まで務めました。

さいごに

細川忠興の娘を興長の嫁として、そして六男を養子として迎えたことを考えると、松井康之・興長父子は細川家より厚い信頼を得ていたことがわかります。

残された話を読む限りでも、細川家の繁栄は松井家の貢献によるものという評価も決して大げさとはいえません。

直接的ではないにしても、康之・興長父子が小倉藩に与えた影響は決して小さくはないでしょう。

参考文献:八代市ホームページ、熊本市公式観光サイト、小野剛史 「小倉藩の逆襲」花乱社、2019年

文:成重 敏夫