第17話 小倉戦争と小倉城自焼

今から約150年ほど前、小倉藩を舞台とした戦が行われました。その名も「小倉戦争」。

今回は、小倉藩の各地で戦が繰り広げられ、小倉城本丸を自焼するという悲しい出来事も起こった「小倉戦争」を紹介いたします。

小倉戦争とは

「小倉戦争」とは、1866年(慶応2年)に江戸幕府が長州藩に攻め入った「第二次長州征伐」内での戦のひとつです。

「第二次長州征伐」は、長州藩の四ヶ所の藩境(小倉口、芸州口、大島口、石州口)で戦闘が行われたことから、長州藩では「四境戦争(しきょうせんそう)」とも呼ばれています。

このうち、小倉口で行われた戦を「小倉戦争(小倉口の戦い)」と呼び、「田野浦の戦い」「大里の戦い」、そして「赤坂の戦い」の三つの戦に分けられます。小倉、または門司にお住まいの方にとっては、どれもおなじみの地名ではないでしょうか。

小倉口の幕府軍(九州諸藩)の総督は小笠原長行。肥前国唐津藩出身で、小倉藩小笠原家の親戚にあたります。幼いころから頭脳明晰で、藩主でないにもかかわらず老中に抜擢されたという異例の経歴を持つ人物です。

田野浦の戦い

「田野浦の戦い」は、1866年(慶応2年)6月17日の長州藩軍による田野浦急襲で始まりました。

長州藩軍は、軍艦と壇ノ浦砲台から田野浦と門司を砲撃。山縣狂介(山縣有朋)率いる奇兵隊や報国隊が古城山(現在の和布刈公園)の東側にある大久保海岸に上陸。古城山の砲台を奪取します。

蒸気軍艦・乙丑丸に乗り込んでいた坂本龍馬は、自らが指揮する庚申丸とともに門司を砲撃。そのうち一発が甲宗八幡神社に命中し、社の一部が炎上しました。

その後、海軍総督として戦闘の指揮を執る高杉晋作が長州軍に撤退を指示。「田野浦の戦い」は長州藩軍の一方的な勝利で終了しました。

この戦では、両藩の装備が対照的であったといわれています。長州藩軍の兵士は筒袖の上着にズボンかパッチ(足首まである男性用下着)という服装で、中には裸同然の者もいたそうです。

一方、小倉藩軍の兵士は戦国時代と変わらない重い鎧、兜をまとって応戦したとのこと。この装備の差で、小倉藩軍が敗れてしまったという考え方もあるようです。

ちなみにこの「田野浦の戦い」は坂本龍馬が生涯で唯一参加した戦争であるといわれています。

大里の戦い

7月3日に長州藩軍は2度目の上陸作戦を決行。大里の攻略を目的に奇兵隊が門司に上陸、大里に進軍します。

小倉藩軍は田野浦の戦いと同じ轍を踏まぬよう、この日は甲冑を脱いで軽装で戦いましたが、劣勢を跳ね返すには至りません。

背後に控えていた熊本藩、久留米藩や幕府の兵からの支援もなく、小倉藩軍はこの日も敗戦。全軍が赤坂まで撤退しました。

その後、小倉藩は防衛体制を再編。小倉城下防衛上の最重要拠点である赤坂地区に熊本藩軍を配属しました。

赤坂の戦い

7月27日に長州藩軍は侵攻を再開。大里地区から小倉に向かいます。この日は熊本藩軍の奮闘により、長州藩軍に大打撃を与えることに成功。更に小倉藩軍が追撃して大里方面まで長州藩軍を撃退。初めての小倉藩軍の勝利です。

しかし、熊本藩軍からの支援要請を総督の小笠原長行が断ったことなどから熊本藩軍の不信は高まり、7月30日に熊本藩を含む諸藩は無断で赤坂からの撤退を開始し、帰国します。

小笠原長行が逃げる?

熊本藩などが帰国した翌日、信じられないことに小笠原長行が姿を消してしまいます。

長行は、7月20日の将軍家茂の逝去に伴う善後策を協議するという理由で、翌30日の夜陰に紛れて開善寺を抜け出し、幕府軍艦の富士山丸に乗り込んだそうです。

寝耳に水の小倉藩。この事態に驚愕した小倉藩の家老・小宮民部は、事情を聴くために郡代の杉生募と船奉行の岡野六左衛門を派遣。

二人は小舟に乗って富士山丸に近づきましたが、長行に面談を拒否された上、富士山丸の甲板から小銃を浴びせられたそうです。

小倉城を自焼し香春に撤退

前回の「小倉藩を治めた藩主たち④ 小笠原忠徴・忠嘉・忠幹・忠忱」で紹介していますが、このときの小倉藩は、第10代藩主の小笠原忠忱が幼く、戦闘の指揮を取れないため、第9代藩主・小笠原忠幹が前年に死去したことを伏せている状態です。

ただでさえ追いつめられている小倉藩。熊本藩などの帰国と総督の逃亡により、完全に窮地に立たされてしまいます。

ここで小倉藩は、軍議により「力の限り防戦した上で小倉城を開城する」という方針を固めます。しかしその後、小宮民部が独断に近い形でこの決定を覆します。

民部は、長州藩軍が押し寄せてくる前に小倉城を自焼することを決心。8月1日、幼い小笠原豊千代丸(後の忠忱)や小笠原忠幹の正室などを肥後国熊本藩に避難させた後、民部は小倉城に火を放ちます。

小倉城の自焼により、小倉藩は田川郡香春まで撤退を余儀なくされました。

実はこのとき、小倉城に天守閣はありませんでした。第6代藩主・小笠原忠固が藩を治めていた天保8年に不審火により燃えていたのです。当時の小倉藩は忠固の大老就官運動で極度の財政難。天守閣再建に回す資金はなく、放置されていました。

小倉藩は香春まで撤退しましたが、戦はまだ終わりません。香春での戦闘とその後の小倉藩については、次回の話で紹介いたします。

参考文献:小野剛史 「小倉藩の逆襲」花乱社 2019年

文:成重 敏夫