第23話 小倉城を見守り続ける迎え虎・送り虎
小倉城に二頭の虎がいることをご存じでしょうか。
虎の名前は「迎え虎」と「送り虎」。
小倉城に訪れたことのある方は、天守閣に展示されている大きな虎の絵が記憶に残っているかもしれませんね。この二頭の虎は、長年にわたり小倉城のシンボルとして来城者に親しまれています。
今回の小倉城ものがたりは、「迎え虎」と「送り虎」を紹介いたします。
迎え虎・送り虎とは
迎え虎と送り虎は、小倉城が焼失した慶応2年(1866年)が寅年であったことにちなんで描かれました。
雌雄一対となっており、迎え虎(オス)は小倉城天守閣1階に、送り虎(メス)は2階に展示されています。ともに大きさは日本最大級の高さ4.75×幅2.5mで、昭和35年、36年(1960年、1961年)に描かれた作品です。
迎え虎は千客万来、送り虎は麗虎招福の意味を持っています。迎え虎は、どの位置から見ても真正面に見える「八方睨みの虎」となっているのが特徴。
慶応2年の「小倉戦争」
そもそも、慶応2年(1866年)とは小倉藩にとってどのような年だったのでしょうか。
この年は、いわゆる「小倉戦争」が行われた年でした。
長州藩軍と戦った小倉藩軍は6月の「田野浦の戦い」「大里の戦い」で追いつめられ、「赤坂の戦い」で盛り返したものの、敗色が濃厚となります。
総大将の逃亡などもあり孤立してしまった小倉藩は、自ら小倉城に火を放ち香春まで撤退しました。
その後も劣勢は続き、翌慶応3年(1867年)に小倉藩は藩の中心である小倉城下と企救郡を長州軍に明け渡し、事実上の降伏となりました。
小倉藩にとって、慶応2年(1866年)は激動の年であったといえるでしょう。
その後、長らく天守閣を失っていた小倉城でしたが、昭和34年(1959年)に天守閣が再建されます。小倉城に迎え虎と送り虎がやってきたのは、その2年後のことです。
迎え虎・送り虎の作者
「迎え虎」「送り虎」を描いたのは佐藤高越(さとうこうえつ)氏。大分県の宇佐神宮のお抱え絵師を務めていた人物です。
佐藤氏は明治33年(1900年)新潟市生まれ。大正の終わりごろ名古屋に転じ、虎の絵専門画家として名を成します。
その後、日本画家の中村岳陵氏に師事。画家として本格的な活動を開始します。日展への入選四回、その他多くの画展に入賞するなど輝かしい実績を残している人物です。
昭和30年(1955年)には宇佐神宮能楽殿に「松樹の図」を、昭和33年(1958年)からは宇佐神宮勅使斎館に襖絵を揮毫。ここにも虎の絵を描いています。
迎え虎・送り虎は「とらっちゃ」のモチーフ
平成21年(2009年)に小倉城の公式マスコットキャラクターとして生まれた「とらっちゃ」。
小倉城になぜ虎のモチーフ?と不思議に思った方も多いかもしれませんね。実はこの「とらっちゃ」は、迎え虎・送り虎を元に作られたキャラクターなんです。
「とらっちゃ」は、小倉城の“三頭目の虎”として小倉城を全国にアピールすべく日々活動しています。
さいごに
参考文献:小野剛史 「小倉藩の逆襲」花乱社、2019年
文:成重 敏夫