第34話 細川ガラシャ その数奇な生涯とは
小倉藩初代藩主である細川忠興の妻・細川ガラシャ。大河ドラマ「麒麟がくる」では芦田愛菜さんが演じたことで話題になりました。
ガラシャは聡明で才色兼備であると評される一方、戦国の世に翻弄され数奇な人生を歩んだ女性として語られることも少なくありません。
わずか38年で幕を閉じた細川ガラシャの生涯とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。
明智光秀の三女・明智玉
細川ガラシャの本名は明智玉(あけち たま)。明智光秀の三女として永禄6年(1563年)に越前国(現在の福井県)で生まれます。
玉と忠興との結婚が決まったのは、お互いが10歳のときでした。天正2年(1574年)の正月に信長に仕える武将が岐阜城に集結した際、信長の命により玉と忠興との結婚が決められたといわれています。
その後、玉は天正6年(1578年)8月に忠興に嫁ぎます。
順風満帆の結婚生活から一転して「謀反人の娘」に
玉は結婚翌年の天正7年(1579年)に長女を、そして天正8年(1580年)には長男・忠隆を出産します。一方、夫の忠興は天正8年(1580年)に18歳にして丹後の国主に。
ふたりの結婚生活は順風満帆と思われました。
しかし天正10年(1582年)に玉の運命を大きく変える出来事が起こります。
それが有名な「本能寺の変」。
玉の父・明智光秀が織田信長を相手に謀反を起こします。ガラシャは「謀叛人(むほんにん)の娘」の烙印を押され、夫の忠興により丹後国の味土野(みどの)に幽閉されてしまいます。
本能寺の変から11日後、光秀は山崎の戦いにて羽柴秀吉に敗れ命を落とします。
それから間もなく明智一族と重臣たちも姿を消したことから、この幽閉が結果として玉の命を守ったことになりました。
キリスト教に傾倒したガラシャ
玉が大坂の細川屋敷に戻ったのは天正12年(1584年)のこと。この頃から玉はキリスト教に傾倒します。
大坂に戻ったとはいえ、「謀叛人の娘」であることには変わりなく、外出もままならない立場の玉。
しかし屋敷を抜け出して教会へ向かい、そこで出会ったグレゴリオ・デ・セスペデス神父に対し、その場での洗礼を願い出ます。
セスペデス神父は一旦玉の申し出を断りますが、玉の意志が固いことを知り、既に洗礼を受けていた玉の侍女・清原いと(清原マリア)を派遣。玉は無事洗礼を受けることができました。
このときに受けた受洗名が「ガラシャ」でした。
由来はラテン語で恩寵(おんちょう)(=神の無償の賜物)を意味する「Gratia(グラツィア)」という言葉。「賜物」という意味を持つ本名の「玉(たま)」を意訳してつけられたといわれています。
キリシタンとなったガラシャは、快活で積極的な性格へと変化。侍女や家臣の改宗を積極的に進め、自らも書物を通じてさらにキリシタンへの理解を深めていきます。
しかし玉の受洗を知った忠興は激怒。強く改宗を迫ったといいます。
さまざまな理由があったのでしょうが、羽柴秀吉がバテレン追放令を出した直後であることと、ガラシャが信仰するキリスト教への“嫉妬”が大きかったのではないかと考えられています。
これらの忠興の行動が原因でガラシャは離婚を考えますが、キリスト教の教えによりそれは叶いませんでした。
「ちりぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
慶長5年(1600年)、夫の忠興は徳川家康に従い上杉征伐に出陣します。
忠興は「もし自分が不在のときに妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従ってまず妻を殺し、その後全員切腹してわが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣に命じました。
忠興が不在となった細川屋敷を取り囲んだのが石田三成。ガラシャは人質となることを要求されますが、それを拒否。
自ら命を絶とうとしますが、キリシタンであるため自害が許されず、家老・小笠原少斎に胸を長刀で突かせて絶命しました。このとき、ガラシャは38歳でした。
辞世の歌は「ちりぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」。
「花は散るときを知っているからこそ花として美しい。人間もそうであらなけれならない。今こそ散るべきときである」という意味です。
このガラシャの死は「義死」と評価されています。「義死」とは、文字通り正義のために死ぬこと。細川家に対する「義」がガラシャに死を決意させたのだとされています。
小倉で行われたガラシャの追悼ミサ
ガラシャの改宗に大きく憤った忠興ですが、ガラシャの死後は彼女をキリスト教に導いたセスペデス神父を小倉藩に招きます。
セスペデス神父は慶長6年(1601年)に教会を設立。慶長16年(1611年)に亡くなるまで、忠興の命によりガラシャの追悼ミサを行いました。
小倉城に展示されているジオラマでも、この追悼ミサの様子が描かれています。
オペラになったガラシャの生涯
ガラシャが亡くなった約100年後、彼女の壮絶な生涯が戯曲「気丈な貴婦人グラティア」として1698年にウィーンで上演されました。
「丹後国王の妃であるグラティア(ガラシャ)が、暴君である夫のキリスト教迫害に堪え、キリスト教の信仰を守り通した。その後のガラシャの死によって夫が自らの非を認め、改心する」という物語です。
その後もフランスで書籍が出版されるなど、ガラシャの生涯はヨーロッパにも広く知られるようになり、キリスト教倫理の模範として称えられました。
さいごに
10歳で結婚を決められ15歳で結婚、父・光秀による「本能寺の変」、味土野への幽閉、キリスト教への入信、そして細川屋敷での壮絶な最期。
歴史に翻弄されることの多い戦国時代の女性の中でも、ガラシャは特に数奇な運命をたどったのではないでしょうか。
参考文献:米原正義「細川幽斎・忠興のすべて」新人物往来社、2000年/上総英郎「細川ガラシャのすべて」新人物往来社、1994年/田畑泰子「細川ガラシャ -散りぬべき時知りてこそ-」ミネルヴァ書房、2010年
文:成重 敏夫