第42話 小倉城城郭の出入口に置かれた門司口門・中津口門・香春口門
前回、前々回の「小倉城ものがたり」では、小倉城内にある8つの門の跡を紹介しました。
門は他にも存在しており、城郭の出入口には10カ所の口門が設置されていました。
今回の「小倉城ものがたり」では、10カ所の門のうち、門司往還に置かれていた「門司口門」と中津街道の「中津口門」、そして秋月街道の「香春口門」を紹介いたします。
九州咽喉の地・小倉
かつて、小倉は九州咽喉の地(きゅうしゅういんこうのち)と呼ばれていました。
重要な通路を意味する「咽喉」という言葉がつけられていたのは、九州各地につながる五つの街道が、小倉(常盤橋)を起点に放射状に伸びていたことによるものです。
小倉を起点とする街道は以下の五つ。「小倉の五街道」と呼ばれています。
門司往還 | 門司口と大里・門司を結ぶ街道 |
中津街道 | 中津口と豊前国中津を結ぶ街道 |
秋月街道 | 香春口から田川郡香春、筑前国秋月を経て筑後国久留米に至る街道 |
長崎街道 | 到津口から筑前国黒崎・木屋瀬を経て肥前国長崎に至る街道 |
唐津街道 | 溜池口から筑前国戸畑・若松、博多・福岡を経て肥前国唐津に至る街道 |
門司往還の門司口門
門司往還は、江戸時代の参勤交代にも使われた重要な街道で、九州諸藩の大名は、常盤橋周辺の本陣で一泊し、翌日門司口を通って大里へと向かったそうです。
小倉で最も重要な道なので、昼夜常に開門しており、常時門番がいたとのこと。
旧門司往還の路面数カ所には、このことを示す【参勤交代往還路】という文言が刻まれています。
門司口から長浜、赤坂を通って大里へと向かう道は、万葉の昔から往来が盛んであったそうです。高浜、長浜は万葉集に出てくる「企救の高浜」「企救の長浜」で、風光明媚であったといわれています。
当時の門司口門近くにある貴布禰神社の万葉歌碑には以下のように刻まれています。
豊國乃 聞之長濱 去晩 日之昏去者 妹食序念
(豊国の 企救の長浜 行き暮らし 日の暮れゆけば 妹をしぞ思ふ)
「豊国の企救の長浜、この長々と続く浜を朝から晩まで一日歩き続けて、日も暮れてゆくので、あの子のことが思われてならない」という意味だそうです。
中津口門
中津街道の出入り口に置かれていたのが中津口門です。場所は現在の中津口公園(小倉北区)内。
慶長7年(1602年)、細川忠興が小倉城を築城した際に、この地に中津口門を作りました。
中津口門には大きな石が使われているのですが、その石にまつわる話が残されています。
中津口門を設置する際、敵の進入を防ぐために高さ3メートル、幅約5メートルの大きな石を使いました。
忠興自慢の大きな石は、大谷(現在の大谷池付近)から運んだそうですが、あまりの大きさに途中で運べなくなったそうです。
立腹した忠興は、監督者を斬り殺します。その後、石は猛スピードで小倉まで運ばれたそうです。
この話を聞いた小笠原四代藩主・小笠原忠総(ただふさ)は「二つに割って運べば殺さずに済んだのに」と言ったとか。このことを「細川の大石」「小笠原の割石」と呼んだそうです。
明治時代になると、中津や築上の青年が多数小倉に来たそうです。中津口門を入るときにこの大石をにらむと成功するといわれていたため、彼らは皆一心ににらんだとか。これを「大石にらみ」と呼ぶそうです。
この大きな石は現在、八坂神社(小倉城庭園そば)に移されています。
香春口門
秋月街道の出入り口の門が香春口門。現在のモノレール付近にあったそうです。
この門は朝四時から夜十二時まで開いており、時間外は切手(手形)持参者のみが通行できたとのこと。かなり往来が多かったことが分かります。
さいごに
残りの7カ所の門は富野口門、篠崎口門、蟹喰口門、到津口(筑前口)門、紺屋町口門、溜池口門、清水口門です。現在も地名として残されているものも多く、場所もイメージしやすいのではないでしょうか。
この10カ所を結ぶと、ほぼ小倉城の大きさになります。小倉城の広さがよく分かりますね。
参考文献:北九州市ホームページ
文:成重 敏夫