第46話 英彦山と小倉城との結びつき

小中学校の遠足やキャンプ、高校、大学の合宿研修などで「英彦山(ひこさん)」を訪れたことのある北九州市民の方は多いのではないでしょうか。

今でこそ小倉城とは別の自治体に属しますが(英彦山は田川郡添田町)、かつては同じ豊前国に属していました。

今回の「小倉城ものがたり」は英彦山にまつわるお話を紹介します。

日本三大修験山・英彦山

現在、英彦山にある英彦山神社は、元々は寺院でした。
羽黒山(山形県)・大峰山(奈良県)とともに「日本三大修験山」として、山伏の修験道場であったといわれています。

修験道とは、日本古来の山岳信仰と仏教の密教、道教が結びついた宗教のことで、山へ籠もって厳しい修行を行うのが特徴です。

英彦山は、山伏の修験道場として古くから武芸の鍛錬に力を入れており、最盛期には、大名に匹敵するほどの兵力を保持していたとされます。

現在でも山伏の坊舎跡など往時をしのぶ史跡が残っています。

元々は「彦山」という表記でしたが、享保14年(1729年)に霊元(れいげん)法皇から、「英」の一字を賜り、「英彦山」と表記するようになったといいます。

このときに霊元法皇より下賜された勅額が、英彦山の表玄関にある「銅の鳥居(かねのとりい)」に残されています。

英彦山の座主とは?

座主(ざす)とは、山の寺を統括する僧のトップのことを指します。

英彦山の座主は元々輪番制となっていましが、元弘3年(1333年)に後伏見天皇の第六皇子・長助法親王が迎えられてからは世襲制となりました。

この座主を巡って、英彦山と小倉城との間でさまざまな駆け引きが行われていました。

天正15年(1587年)に小倉城主となった毛利勝信は、翌天正16年(1588年)から、彦山を自らの支配下に置くために、勝信の弟・毛利吉勝の息子を彦山の座主に据えようとしたのです。

吉勝の息子は成人期まで破戒生活を送っていたといわれており、そのような人物を聖なる彦山座主とするわけにはいかないと、彦山側は猛反発。

長助法親王からの血脈縁者を座主とすることを盾に、勝信からの不当な要求を拒絶します。

以降、勝信と彦山は長らく対立していましたが、慶長5年(1600年)に豊臣秀吉側から下された五カ条の条目により、勝信は彦山への介入が禁じられました。

これらの対立もあり、勝信が小倉城主を務めていた時期には彦山は困窮していました。

しかし、細川忠興が小倉藩藩主となってからは状況が好転。忠興をはじめとして各地諸大名を外護の大檀那(おおだんな・お金をたくさん出す檀家のこと)とする一方で、座主家の婚約の仲介など、忠興が陰に陽に彦山の復興に尽くしたことで、彦山は一気に再興しました。

英彦山の座主の格の高さ

藩主ほどではありませんが、英彦山の座主は小倉藩において非常に高い格付けをされていました。

小倉城に登城する際、家老や菩提寺の住職は槻門の片扉から登城していましたが、英彦山の座主は、大手門、槻門(けやきもん)の両扉から入ることが可能でした。

家老や菩提寺の住職も決して低い位ではありませんので、いかに英彦山の座主の格が高かったかがよく分かります。

さいごに

小倉城と英彦山は距離も遠く、一見つながりがなさそうに見えますが、かつては両者の間にさまざまな出来事がありました。

現在山の中腹に立っている桃山建築様式の「英彦山神宮奉幣殿」は元和2年(1616年)に忠興が再建したものです。以降も小倉藩主により修復されたとのことで、小倉藩、小倉城とのつながりを感じることができます。

参考文献:読売新聞西部本社社会部「英彦山」赤間関書房、1975年/田川郷土研究会「英彦山 増補」葦書房、1978年
文:成重 敏夫