第11話 ぬか漬けを愛した“鬼孫”小笠原忠真

前回の「小倉藩でワインを造った第2代藩主・細川忠利」で紹介した細川忠利に続いて、寛永9年(1632年)から小倉藩の藩主を務めたのが小笠原忠真(ただざね)。

ここから、小笠原家は約240年にわたり小倉藩を治めます。

細川忠利と同様に、小笠原忠真も小倉の町に大きな影響を残しています。

細川忠利の義兄・小笠原忠真

小笠原忠真は、細川忠利の正室・千代姫の兄にあたります。義兄弟間での藩主の交代ということで、忠真はスムーズに国に入ることができました。

また、義兄・忠真に対しての心遣いからか、忠利は小倉城に蓄えていた炭や薪を全て残していったとのこと。

細川家、小笠原家の親密な関係は幕末まで続いたそうです。

「わが鬼孫なり」と家康が絶賛

忠真は、徳川家康と織田信長のふたりの天下人を曾祖父にもっていることから「戦国のサラブレッド」などと呼ばれます。

大坂夏の陣(1615年)での忠真の凄まじい奮戦ぶりを、家康が「わが鬼孫(きそん)なり」と絶賛した話はよく知られています。

忠真は小笠原秀政の次男ですので本来は跡継ぎとならないところですが、父・秀政と長兄・忠脩が大坂夏の陣で戦死したことにより、家督を相続することになりました。

ちなみに、大坂夏の陣で忠真の父・秀政を討った武将のひとりが、かつて小倉の地ともかかわりのあった毛利勝永。勝永はこの戦で、初代小倉藩藩主・細川忠興とも相まみえています。

大坂夏の陣は、その後の小倉の町に大きく影響を与えた戦といえるでしょう。

ぬか漬けと茶文化を広める

小倉の代表的な郷土料理「ぬか炊き」。青魚をぬか味噌(ぬか床)で炊き込んだ、小倉城下に伝わる独自の食文化です。

寛永3年(1626年)に中津へ隠居した細川忠興が、小倉にいる息子の細川忠利に送った書状の中に、忠興が忠利から送られたぬか味噌の美味しさに満足したことが記されています。

これが北九州における「ぬか味噌」文化の始まりといわれています。

その後藩主となった忠真も、「ぬか味噌」を好んだとのこと。小倉藩に入る際、忠真が信濃国松本(現在の長野県)より「ぬか味噌」を持ち込んだという説もあります。

ちなみに、ぬか漬けのことを「床漬け(とこづけ)」と呼ぶのは、小笠原家がぬか潰けの桶を大切にして「床の間」に置いたとの言い伝えが由来とされています。

この頃に小笠原家がぬか漬けを推奨したことで、小倉城下の人々へ広まっていったようです。

また、忠真は茶道にも通じており、茶道流派「小笠原家茶道古流」を興したことで、小倉の茶文化の基盤をつくった人物のひとりとされています。

宮本武蔵が最も長く仕えた大名

忠真は、第7話「剣豪・宮本武蔵と小倉との深いつながり」で紹介した宮本武蔵が、最も長く仕えた大名です。

ただし、出会いは小倉ではなく明石(兵庫県)です。

武蔵は、「巌流島の戦い」の6年後とされる元和4年(1618年)に、当時明石藩主であった小笠原忠真の客分として明石に迎えられます。

同年、明石城の築城が始まった際には、明石城下の町割(土地の区画整備)を担当。明石城の樹木屋敷や本松寺の庭園の作庭も行ったそうです。

紅葉の名所・広寿山福聚寺を建立

小倉の紅葉の名所として知られる「広寿山福聚寺」(小倉北区寿山町)は、寛文5年(1665年)に忠真が菩提寺(一族をまつる寺)として建てたものです。

慶応2年(1866年)に長州藩と戦った際に多くが焼失しましたが、本堂や入り口の門、鐘つき堂などは当時のまま残されています。

寛文7年(1667年)72歳で死去した忠真の墓も、この広寿山福聚寺にあります。

小笠原家の家紋・三階菱

小倉城公式マスコットキャラクター「とらっちゃ」の額に描かれているのが、小笠原家の家紋「三階菱(さんがいびし)」です。

年末に小倉城に飾り付けられる大鏡餅が三段重ねになっているのは、この「三階菱」にちなんだもの。

2018年には小倉城の内堀から三階菱を記した瓦が発見されたということもありました。

まとめ

約240年にわたり小倉藩を治めたこともあり、小倉藩=小笠原家というイメージをお持ちの方も多いのではないでしょうか。

小笠原小倉藩の初代藩主・小笠原忠真はぬか漬けを広めたり、広寿山福聚寺を建てたりと、現在の小倉の町や文化を創ったひとりといえるでしょう。
参考文献:小野剛史 「小倉藩の逆襲」花乱社 2019年

文:成重 敏夫