第21話 小倉藩の礎を作った人たちが眠る広寿山福聚寺
小倉の紅葉スポットとして、小倉城の天守閣周辺に並んで人気が高いのが広寿山福聚寺(こうじゅさんふくじゅじ)。
足立山(小倉北区)の麓にあるこの寺院も、小倉城に大いに関係のある場所なんです。
今回の「小倉城ものがたり」は広寿山福聚寺を紹介します。
広寿山福聚寺とは
広寿山福聚寺は寛文5年(1665年)、豊前小倉藩の初代藩主・小笠原忠真(ただざね)が菩提寺(一族をまつる寺)として創建しました。
その後延宝7年(1679年)に第2代藩主・小笠原忠雄(ただたか)が現在地に移転。七堂伽藍や塔中二十五坊を有する一大法窟を完成させました。
慶応2年(1866年)の小倉戦争のときには、小倉藩が小倉城より撤退する際に小倉城だけでなく福聚寺にも火を放ったとのこと。
寺の大半は焼失してしまいましたが、本堂や入り口の門、鐘つき堂などは当時のままの姿で残っています。
昭和36年(1961年)には所蔵されている黄檗美術品数点が県有形文化財に、そして昭和44年(1969年)には寺の建物が福岡県の史跡に指定されました。
小倉藩主小笠原家の菩提寺・広寿山福聚寺
240年にわたり小倉藩を治めてきた小笠原家の菩提寺である広寿山福聚寺には、初代藩主の小笠原忠真と永貞院夫妻を始め、2代藩主の小笠原忠雄、8代藩主・小笠原忠嘉、そして9代藩主の小笠原忠幹の墓所が置かれています。
慶応元年(1865年)に第9代藩主・小笠原忠幹が死去した際、嫡子の小笠原忠忱(のちの第10代藩主)が幼少であったことから、忠幹の死はしばらく伏せられていました。
このとき、遺体も小倉城に埋められていたとのこと。小倉城自焼の際にも忠幹の遺体は城内に残されたままで、小倉藩が本拠を香春に移した4ヶ月後に掘り起こされ、金田村(現・福智町)の碧巌寺に葬られたそうです。
その後明治17年(1884年)に広寿山福聚寺に改葬されました。
広寿山福聚寺と小倉戦争
広寿山福聚寺は以前「小倉城ものがたり」で紹介した小倉戦争とも深いかかわりを持ちます。
墓地には「慶応之役小倉藩戦死者墓」と刻まれた石碑が建てられており、小倉戦争での戦死者が祀られています。
この石碑は大正7年(1918年)に建てられたもので、題字は第10代小倉藩藩主の小笠原忠忱の長男、小笠原長幹(ながよし)によるものです。
また、広寿山福聚寺には小倉藩で家老を務めた島村志津摩の墓所も置かれています。
島村志津摩は小倉戦争で小倉藩が香春に撤退した後、小倉藩軍の中心として活躍。一時は長州藩軍を慌てさせるなどの奮闘を見せた人物です。
小倉戦争の講和後は香春藩の家老となりますが、明治2年(1869年)に辞職。明治9年(1876年)に44歳で逝去します。
当初は現在の京都郡苅田町に葬られていましたが、後年、広寿山福聚寺に改葬されました。
現在の広寿山福聚寺
現在の広寿山福聚寺は、小倉エリアの紅葉の名所として市民に親しまれています。
朱色の魚板があまりに特徴的なため、その印象を強くお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。魚板とは魚をかたどった木の板で、時刻や行事を知らせるために叩くのだそうです。
また、広寿山福聚寺の門は平成15年(2003年)に製作された映画「精霊流し」の撮影にも使われています。ご覧になった方もいるのではないでしょうか。
さいごに
240年にわたり小倉藩を収めてきた小笠原家と、小倉藩の運命を大きく左右した小倉戦争。これらにまつわるものが最も多く残っているのが、この広寿山福聚寺です。
小倉藩の礎を作った人たちが多く眠る広寿山福聚寺をぜひ訪れてみてください。
参考文献:北九州市ホームページ/みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」
文:成重 敏夫