第36話 小笠原家を支え、細川家を救った宮本伊織
「巌流島の戦い」で知られる剣豪・宮本武蔵が60余年の生涯で、最も長く過ごしたのが小倉藩です。武蔵は、細川・小笠原両藩の時代を通して7年間をこの地で過ごし、有形無形の財産を遺しました。
そして武蔵の子・伊織も、武蔵同様に小倉藩の繁栄に大きく貢献しています。
今回の「小倉城ものがたり」は宮本武蔵の子、宮本伊織をご紹介します。
宮本伊織と小倉藩
宮本伊織(みやもといおり)は慶長17年(1612年)の生まれ。
15歳のときに宮本武蔵の養子となり、播州明石藩主・小笠原忠真に仕えます。そして寛永9年(1632年)に忠真に従い小倉藩に入ります。
宮本伊織が遺した「小倉碑文」
宮本伊織が小倉藩に遺したもののうち、最も身近なのが、小倉北区赤坂の手向山公園(たむけやまこうえん)にある顕彰碑ではないでしょうか。
この碑は、武蔵が亡くなって9年目の承応3年(1654年)に建てられました。高さ4.5メートルの自然の巨石です。
碑には、武蔵の遺言として「天仰實相圓満兵法逝去不絶」(天を仰ぐに、実相円満、完全な兵法は、時が過ぎ去っても絶えない 永遠である)、そして千百十一字にもわたる顕彰文が刻まれています。
これが「小倉碑文」と呼ばれているものです。
後に書かれた『武州伝来記』『兵法先師伝記』『武公伝』『二天記』などの伝記は、この小倉碑文を基に書かれています。
武蔵の名を聞いて「巌流島の戦い」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。諸説ある出来事ですが、小倉碑文にはかなり具体的に記されています。
よくいわれるのが、武蔵が決められた決闘の時刻に大幅に遅れたというもの。伝記『二天記』にもそう記されています。
しかし、小倉碑文には「両雄同時相会」(=両者は同時に出会った)とあり、実際に武蔵は遅刻していないようです。武蔵の遅刻は、『二天記』を基にした吉川英治の小説『宮本武蔵』での描写が定着したものといわれています。
小倉碑文には、武蔵と小次郎の両名が使った武器も記されています。
小次郎の武器は「岩流手三尺白刃来」と記されています。これは三尺(約1メートル)の長刀(ながだち)のこと。
武蔵は「木刃」、つまり木刀を使用したことがわかります。しかし、木刀の本数や長さははっきりとしておらず、得意とする二刀流で戦ったとするもの、一刀で戦ったとするものなど諸説存在します。
なぜ伊織は武蔵の顕彰碑を手向山の地に建てたのでしょう。
手向山は、伊織が主君の小笠原忠真から与えられた知行地であるからです。宮本家代々の墓も当時は顕彰碑の隣に設置されていました。(現在は手向山の麓に移設されています)
小笠原家を長く支えた宮本家
伊織は寛永15年(1638年)に小倉藩の侍大将、惣軍奉行として島原の乱に出陣しました。戦後、勲功により1500石加増。4000石の知行となり小笠原家の筆頭家老となります。
以後、小笠原家の筆頭家老職は、伊織の宮本家の世襲が続きます。途中、小笠原家から養子を迎えるなど、小笠原家と宮本家との結びつきは強固なものでした。
細川家を救った伊織
小笠原家の前は、細川家が小倉藩を治めていました。細川家と伊織は入れ違いのため両者につながりはないように見えますが、後に伊織が細川家を救ったということがありました。
慶長9年(1604年)、当時の藩主・細川忠興が長男の忠隆を廃嫡。三男・忠利が細川家の跡継ぎとなります。
そして寛永18年(1641年)に熊本で忠利が死去。後継の長男・光尚(みつなお)も8年後の慶安2年(1649年)に31歳の若さで亡くなります。
光尚の長男・六丸(のちに綱利)はわずか6歳と幼く、幕府は細川五十四万石の改易(領地の没収)か、減封(領地の削減)を図ろうとします。
このとき、細川家の筆頭家老・松井興長が、忠利の義兄・小笠原忠真に対して細川家の存続支援を依頼したそうです。
忠真の意向を受けた伊織が、綱利が成人するまで細川家を支援することで、改易、減封から逃れたというものです。
さいごに
小笠原家を支えるだけでなく、細川家をも救った宮本伊織は、間違いなく小倉藩の歴史に大きく名を残す人物です。
「巌流島の戦い」が長く語り継がれるのも、伊織が小倉碑文を遺したからといえるでしょう。
宮本武蔵の子、として語られがちですが、小倉藩への貢献度は武蔵に勝るとも劣りません。
参考文献:小野剛史 「小倉藩の逆襲」花乱社、2019年/西日本シティ銀行 ふるさと歴史シリーズ「北九州に強くなろう」No.15 手向山の「小倉碑文」で読む 剣聖「武蔵」と養子「伊織」
文:成重 敏夫