第38話 大友家と毛利家の間で生き抜いた“初代小倉城主”高橋鑑種
前回の「小倉城ものがたり」では、最初に小倉城を作ったといわれる戦国武将・毛利元就を紹介しました。
中国地方の武将が、九州に城を建てたことを意外に感じた方もいるのではないでしょうか。
今回は、元就が九州から撤退した後に小倉城主となった高橋鑑種(あきたね)を紹介します。あわせて、鑑種が亡くなった後の小倉城についても簡単にまとめました。
小倉城主となった高橋鑑種
永禄12年(1569年)に小倉城を作った毛利元就は同年、敵対する大友義鎮らからの攻撃の影響で九州から撤退します。
その後に小倉城に入ったのが、高橋鑑種(あきたね)。
鑑種は元々、毛利家と敵対する大友家の家臣でしたが、元就に誘われ大友宗麟に反旗を翻して毛利家に付いた人物です。
鑑種の生まれ年は享禄2年(1529年)とも享禄3年(1530年)ともいわれています。豊後国の大友氏の一族、一萬田氏の出身ですが、のちに筑後高橋氏の養子となり、高橋鑑種と名乗ります。
鑑種は武勇に優れており、大友家の数々の戦においても多くの戦功を挙げ、筑前国守護代として宝満山城と岩屋城の城督を務めました。
永禄元年(1558年)から永禄5年(1562年)までの間、豊後の大友義鎮と安芸の毛利元就の間で繰り広げられた「門司城の戦い」という戦があります。
門司城は、現在の和布刈公園がある場所に築かれていました。現在、和布刈公園には「門司城跡」と刻まれた石碑が建てられており、そこからは関門橋、関門海峡を眺めることができます。
門司城がこのような絶好の位置にあったことから、筑前国を狙う大友家と九州進出を目論む毛利家による争奪戦が繰り広げられていたのです。
永禄4年(1561年)の「第四次門司城の戦い」では大友氏が敗戦。翌永禄5年(1562年)、鑑種は大友家を裏切り毛利家に寝返ります。
鑑種は毛利家に寝返った後も、しばらくの間表立った謀反の行動を起こしませんでしたが、永禄10年(1567年)に筑前国の秋月種実らとともに挙兵します。
しかし前述の通り、永禄12年(1569年)に元就は九州から撤退。鑑種は後ろ盾を失ってしまいます。
最終的に鑑種は大友義鎮に降伏。所領と高橋家の当主の座を奪われてしまいます。鑑種は筑前を追放され、隠居同然の身で小倉城に入ります。
その後、秋月種実の子・元種を養子に迎えます。
大友家が衰退すると再び毛利家側に付き、大友家と一戦交えるなど奮闘を続けた鑑種でしたが、天正7年(1579年)に小倉城にて病死します。
鑑種亡き後の小倉城はどうなった?
鑑種の死後、鑑種の子・元種は実父・秋月種実と行動をともにします。拠点を香春岳城(現・田川郡香春町)とし、小倉城は支城としました。
天正15年(1587年)、豊臣軍の侵攻により元種は小倉城を開城。
小倉城には、豊臣秀吉の家臣・毛利勝信が入ります。勝信はそれまでの城を改修し、新たに城を築きました。
小倉城の八坂神社側にある多聞口門そばの石垣で、毛利氏時代の石垣と細川氏時代の石垣の境目がはっきりと確認でき、当時この場所に城が築かれていたことを偲ばせます。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、勝信は子の勝成とともに石田三成率いる西軍につきます。しかし西軍は敗北。黒田孝高の策略により小倉城は落城します。
その後、関ヶ原の戦いの論功行賞により細川忠興が豊前国に入り、慶長7年(1602年)からは小倉城に居城します。
ここから、皆さんもよく知る小倉藩の歴史が始まります。
参考文献:北九州市立自然史歴史博物館「小倉城と城下町」海鳥社、2020年/小野剛史 「小倉藩の逆襲」花乱社、2019年
文:成重 敏夫